2014/08/19

小さな塾で

 今日は午前中から大田区で外出=出勤支援をして、夕方からは市川へ。初訪問から数ヶ月。いよいよイベントや、いろんな新しい試みがはじまる。わくわくしているところです(先日「道草の家の自由時間」に書いた以外にも追加情報があるので、数日中にまた書きます)。

 写真は、国府台(こうのだい)にある自在塾(&スタジオplus国府台教室)の庭。

2014/08/18

よい日、の一例

 誰も知れない見ず知らずの小さな人々と、ある交換をしようと思う。その気持ちから、いいプロジェクトは生まれるんです。(アキッレ・カスティリオーニ)

 今日は本当に暑い一日だった。けれど、夕方には涼しい風が吹きはじめたので、親子三人ではじめて、近所の根岸森林公園へ散歩へ行ってきた。芝生までたどりついたら、光海をベビーカーから抱き上げて、彼が最近、大好きな「たかいたかい」をたくさんした。
 それ以外は、今日は、ずっと道草の家にいた。こんな日は久しぶりだ。冷房のきいた部屋で、積み残している課題や宿題に取り組んだ。進み具合は、まぁまぁかな。でも、進めるのは日々、少しずつやるしかないので、今日はその準備ができた。それが思った以上に大きかったかもしれない(あとにならないとわかりはしないが)。なにはともあれ、よい日だった。きっと、明日にもつながる。よい日だった。

2014/08/17

海と夢

 今日の道草(外出)支援では、電車に乗って行けるところまで行こう! と、出かけて熱海まで行ってしまった。何もしなかったんですけどね。ご飯を食べただけ。あと、海を見た。海の上の雲に、目が奪われる。

 夜になって帰宅して、ご飯を食べて、子をお風呂に入れたあと、ばったり眠ってしまって、夜中に起きる。夢のなかに、もう10年、20年も会っていないような人(もう会うことはないだろう)や、数年に一度くらい、たま〜に会うけれど滅多に会えないような人が出てきて、一緒に「教室」のような場所にいた。いまだに「卒業」できていないとか、いまだに「退職」できていないという夢を、たま〜に見る。おかげで、なつかしい人たちに会えた。

2014/08/16

「自作解説をしてみよう!」

 吉祥寺美術学院のアトリエで夏に開催している「作文セッション」、今年も終わった。イベントとしては、ちょっと荒れ模様(?)で、仕切り役としては反省点も多かったが、三年目にして一番、個人的な手ごたえは大きかった。
 参加者はいつもと同様、アトリエに通う学生たちと、卒業生(大学生が中心)や縁のある人たち、あとスタッフ。ただし今回は、テーマが「自作解説をしてみよう!」で、いつもとちょっと違った(以前は「好きな色について」とか「好きな場所」についてとか、もっとザックリとしていた)。若い人たちには、少しハードルが高かったかな? そのハードルの高さが、よかったような気がする。各人の抱える問題が浮き彫りになったり、意外な発見があったり、成長ぶりが伝わってくる人もいた。参加者のなかには、いろんな葛藤も見えた。苦しさもあり、喜びもあった。
 こういう(いわゆる)ワークショップは、スムーズに執り行う工夫も必要だけれど、冒険も要る。バランスが難しいけど、手探りでやってます。

2014/08/15

陽気な絶望者

 見なれたそんな場所がいつもと少し違うように思いました。見直す気持ちになりました。あの人たちの〈不在〉が際立っているからでしょうか。(小川国夫『弱い神』)

 太平洋戦争の、終戦の日。4年前のいまごろ、渋谷の映画館・アップリンクでは『デルタ 小川国夫原作オムニバス』が公開中で、8月15日には、ぼくも上映後のささやかなトーク・ゲストに立った。そのときに、前のほうの席でぼくの話を聞きながらケラケラ笑っている男性がいて、その夜、出会った。彼はその7ヶ月後に急に(強烈な印象を残したまま)亡くなって。その後、死者に導かれるような展開がいろいろとあったのだ。今夜は、彼が生前、親しくしていた──いまは、ぼくが代わりに(?)通っているアトリエで、毎年・夏恒例の「作文セッション」をやります。
 4年前にぼくがつくった小冊子のタイトルは、『海のように、光のように満ち』。小川国夫の何かのエッセイのなかにあります。なぁんて。

2014/08/14

ある種の呑気さ

 世事万端、当時まだゆったりとした人間の気風がのこっていて、それを封建的というなら、今日、主権在民とはいうものの、なにやら世知辛い首都東京のささくれ立った環境とは、別のものがあった。(桑原甲子雄)

 最近、図書館から桑原甲子雄の写真集を何冊か借りてきて眺めていた。満州紀行以外は、東京を写したもの。身近なものしか写さない人なんだ。『夢の町』という本には、昭和9年から19年までの写真(モノクロ)が入っていて、真ん中付近になぜか、この写真集の編まれた1970年代のカラー写真がちょっと挟み込まれている。ぼくが見ているのは、太平洋戦争に突入していく前夜の、東京の町の、人びとの、明るさだ。そしてぼくがなぜいまこの人の写真にすごく惹かれているかというと、ただ撮っている、といった感じの、ある種の呑気さと、町や人や時代にたいするまっすぐ(素直? 中立的?)な姿勢があるからだ。今夜は、写真ではなく、エッセイ「庶民の頭越しに戦争の足音が…」という短い文章を読んでいる。

2014/08/13

手が動く

 外での仕事を終えて家に帰ってきたら、子の相手をして、家事もしなければならない。妻子が寝てから、自室に入って仕事をする。すでに決まっている仕事もあれば、定期的な「作業」もあるけれど、これからつくらなければならない仕事もあり、いくら時間があっても足りず、もがいている感じ。でも、ある方がつぶやいていたんだけど、はじめてしまえば、手が動く、ということはある。手が動いている、その瞬間、瞬間はいいものだ。立ち止まって、状況を確認したり、現実を思い知るときには、ふさぎ込みたくなる。自分はもうダメなんじゃないか、と意味もなく(とも言えないのがさらに苦しい)思ったりもする。でも、そう思っているときには、「自分」が自分のものでなくなっている気がする(誰のもの?)。手が動いている瞬間、瞬間は自分のものだ。疲れると、子の寝顔を見に寝室へ下りていく。

 写真は、蚊帳のなか。毎晩、吊ってます。