2015/11/29

あたたかい時間

 水曜から珍しく三日つづけて休みをいただいて、鹿児島から出てきた父母と、妻子と一緒に箱根旅行をしてきた。箱根はいかにも観光地という感じで、ぼくら夫婦には(行くのは今度で三回目だったのだが)、なんというか、よい思い出しかない場所。今回は久しぶりに芦ノ湖まで足をのばして、雪をかぶった富士山にも会えた。ほとんど富士山を見たことのない両親も喜んでくれた。いや、富士山よりも、かわいい孫と過ごせることが何よりも嬉しいみたいで、孫のほうもじーじばーばと過ごせるのがすごく嬉しい様子(なんだか不思議と「わかる」みたい)。両親には末永く元気でいてほしい。これまでいろんなことがあったけれど、これからは、穏やかな、あたたかい時間が、よりながく、流れますように。

 で、ぼくは今日から仕事復帰。年中休みらしい休みはないつもりで過ごしているので、三日休んだだけでえらく長い休みを過ごしたような気がするのが可笑しい。

2015/11/26

むずがゆいような嬉しいような

 先日、吉祥寺のアトリエへ光海を連れて(親子三人で)行った。じつは2度目。前回は生まれて半年にもなっていなかったから、まったく覚えていなかった、だろうと思う。あのときは我々(ぼくとふたりで行った)が到着した瞬間から、挨拶もそこそこに、先生が光海をデッサンしはじめて、やがて全員がデッサンしはじめて、赤ん坊を囲んで真剣な空気が漲ったのだった。今回はそんなこともなく穏やかなひととき。アトリエにはいろんなモノがあって、光海はたのしいねぇ。ぼくには「職場」のひとつであり、「ワークショップ」的な、「サロン」的な場が生まれるところでもあり、家族がそこに揃うと何だかむずがゆいような嬉しいような気持ちがわいてくる。

2015/11/24

珈琲焙煎舎の4周年(下)

 通常営業をつづける珈琲焙煎舎を見ながら、3年前、1周年のときに、当時の常連さんたちに声をかけて、ひとり営業になったばかりだった店主を「励ます会」というのをやった。その夜、お肉屋のお父さんがこう言ったのだった。よいものをつくりつづけていたら、お客さんは絶対につく。余計なことは考えなくともよい。と。昔気質といえば昔気質。そう言うお父さんの横でサポートするお母さんの存在も大きく感じられたのだけれど。よいものをつくれば売れるという時代ではない、などと言われることも多くなってきた昨今、ほんとうのつくり手はそんなこと言うかなぁ(そう言える人はみんな自分では何もつくる気がないから勝手なことが言えるんだ)と冷めた気持ちになることもぼくは多くて。先日、店主は「4年間、いろいろあったけど、もう店を閉めようと思ったことは一度もない」と言いきっていた。
 信じる人がいる場はつづく、と思う。

2015/11/22

珈琲焙煎舎の4周年(上)

 「道草のススメ」〜「新・道草のススメ」をご覧になっている方にはすっかりお馴染みの、珈琲焙煎舎。今月、11月11日11時でオープンから丸4周年を迎えました。ぼくにとってのこの4年間も、珈琲焙煎舎ぬきには考えられない、いつも感謝しています。で、オープン当初はヨチヨチ歩きだった(?)店主もお店もたくましく成長して、ぼくもいちファンとしてすごく嬉しい。光海も1年ぶりにお店へ行き店主と記念撮影をしようと誘ったら、4周年記念セット(500円、11月いっぱい販売しているとのことですよ)の宣伝写真素材に使われました(どうぞ、と、笑)。これはそのアウトテイク(そこまでは誰も見てないか)。
 とはいえ、イベント的なことは何も考えていない様子で、浮き足立つこともなく、日々たんたんと焙煎〜営業に励んでる。お隣の市川精肉店(知る人ぞ知る地元の名店デスヨ)は40ウン周年だそうで、4年なんて短いと。(つづく)

2015/11/21

過去をどうするか

 こういう経験をした人は、そういう人になる、という言い方はいかにももっともらしい。ボードレールは「幼いころに幸せのイメージをもてなかった人は一生それをもつことができない」と言っていたと小川国夫がよく言っていた。見方によってはおそろしい指摘かもしれないが、幼いころにしか得られないイメージがあると言っているだけで、幼いころに不幸を味わった人は一生不幸のままでいるしかないと言っているわけではない(それに「不幸」にもいろいろあるようだし)。人は自分自身の味わった過去ですら「印象」を書き換えて生きてゆく。数年前、「これまでの経験をいかさない」ということばを紹介してくれた人がいて、そのときのことをちょっと思い出した。これまでの経験は、これからのことに「いかす」ものじゃなくて、これからのことはこれからのこととして新たにやるほうがよい、隠し味のように「いきる」ものなのかもしれないなぁ。

2015/11/20

日だまりのなかで

 ぼくたちの住んでいるここは、とても静かで、平和な感じがするけれど、外からは不穏な、ちょっと人が抱えるには巨大すぎる悲鳴のようなニュースや、役所からは人を惑わすような郵便がきたりする。とくにショッキングなニュースを前にしたら、みんな饒舌になるというか、ちょっとした躁状態になっているのを感じる。いろんなことを感じたり考えたりすればよいが、ぼくはひとつだけ気をつけていることがあり、いろんな情報にたいして自分が「評論家」のようにならないようにしたいということだ。

2015/11/19

「ワークショップ」というあり方

 もう半月前になるけれど、静岡美術学院へ初めて行き、「インタビュー・ゲーム」のワークショップをやった。夏に吉祥寺でやったものを少し変えて。イントロの部分で「絵を見て感動したことはあるか?」という質問が出たので、面白くて、それを採用して全員に聞いてみたところ、やっぱり「ない」という人がいるんですね。「ない」でも「ある」でもいいんだけど、そこから個々が秘めている「インタビュー・ゲーム」の森へ入ってゆく。で、やっぱり「ある」人ばっかりじゃなくて「ない」人がいたほうが面白いし、「ある」と思っていた人も、「あれ、ほんとうにあるかな?」という気持ちが生まれるかもしれない。最近いくつかの場所で「ワークショップ」をはじめていて、自分のなかで明確に決めていることは、感じ方は個々に委ねよう、ということ。たとえば障害福祉をめぐるワークショップであれば、「自分は障害者を差別している」という人が出てきても良い場にするわけだ。ただし「差別すべきだ」ではなく「自分は差別している」という感じ方を差し出せるような場にしたい。

2015/11/18

「わかる」ということ

 本当に他の悲しみがわかるということは、自分もすっかり悲しくなることである。(森田真生による岡潔のことば)

 いま話題のこの本を、じつはぼくも読んでる。発売と同時くらいに買っていた。吉祥寺のアトリエで最近、「わかる」とはどういうことか? を考えることが多かった。それでこの人の書くものにぶつかってピーンときたわけ。もっと言うと森田真生さんの書いている岡潔が「わかる」ということについてたくさん書き残していて、岡さんの本も読みはじめてる(ふたりとも数学者)。森田さんはぼくより5歳くらい若い、岡さんはぼくより80歳くらい上だ(ぼくが生まれる前年に亡くなっている)。岡さんの本を読むと、太平洋戦争のこと、戦前・戦後の教育のこと、いや、それよりもっともっと大切なこと──たとえば人の命のことなんかへの深い言及がスッ、スッと入ってくる。いまはこれらの本を手元に置きながら進もうと思う。

2015/11/17

偶発性の尊重

 山下達郎のツアーに行く、コンサート以外のお楽しみのひとつが、このパンフレット。今回も合計3万字超え(らしい)(自分で数えたわけではないですが)の読み物が収録されていて、『SONGS』を「より深く知るための、スペシャル・セルフ・ライナーノーツ」(ようは自作解説)と、これまでのコンサート・ツアーをめぐるロング・インタビューの2本で、テキストは能地祐子さんによるもの。『SONGS』のほうには、大瀧(詠一)さん(念のために書いておくと『SONGS』のプロデューサー)の仕事には「偶発性の尊重」がつよくあったというようなことが書かれていて、いや、それもずっと感じながら聴いてきましたけど、さらに細やかな発見があった。
 コンサートの半ばでは、世界中にはびこっている「戦争」のこと、2日前に起こったパリの同時多発テロのことにも少し触れて、数年前にも披露していたある曲を演奏した。強いファンク・ビートにのった宮里陽太のソプラノ・サックスが、信じられないような、遠く、どこまでも届くような息のながーいロング・トーンを聴かせた。

2015/11/16

2015年のシュガー・ベイブ

 ちっぽけな街に生まれ 人混みの中を生きる 数知れぬ人々の 魂に届くように──「蒼茫」

 今年も山下達郎さんのコンサート・ツアー「PERFORMANCE2015-2016」の一夜へ行ってきた。今回は道草の家から徒歩圏内の神奈川県民ホール。はじめて演奏する曲、久しぶりの曲、ずっとやりたかったカバー曲、などイロイロありますけど、基本的には「山下達郎のコンサート」の型通りの、いわばワン・パターン。でもたとえ毎回まったく同じであっても(同じではないのですが)、そのサウンドのなかに身を置くだけで、何か日々のなかでとても大切に思われることをもらえる。そうそう、いつも何かあったときの「おまけ」で演奏されるアレを、15年くらい聴いていて初めて生演奏で聴けました。ラッキー。いろんな思いのつまった3時間半。また明日から頑張ろう。

2015/11/15

世界地図とノコノコ展

 世界地図を、じっくりとながめてみよう。地図帳ではなく、できるだけ大きな一枚の紙に印刷した、世界地図だ。(片岡義男)

 片岡義男の(気の遠くなるような?)アーカイブをはじめている「片岡義男.com」が、毎朝、エッセイをひとつアップしていて、今朝はテロのニュースを受けるように(偶然かもしれないが)「いま、ここにある、自分の場所」を紹介していて再読。これはぼくはたびたび読み返してきたエッセイです。ぜひ読んでみてください。
 で、話は変わって、今日は久しぶりに江古田へ。Vieillでは、ワークショップノコノコの展示がはじまっています。しむらまさと君も小さな作品で参加。『からすのチーズ』も相変わらず販売中です(Vieillの大山さん、いつもありがとうございます)。あの、詳しくはまた、と思いますけど、明るい作品が多いです。皆様ぜひどうぞ。

2015/11/14

無力と祈り

 今朝(日本時間の今朝、向こうは夜)パリで起こったテロが、行ったことのない遠い街のことなのに、全然「遠い」感じがしない。ということは、シリアの街もけっして「遠く」ないということ。私も「隣人」へ祈りを届けます。無力でも、祈ることはできる。
 銃撃の現場になったひとつがコンサート会場であったということにも、底知れない無力さを感じてます。気づいたら悲しいというのをはるか通り越して…

2015/11/13

秋から冬へ

 ずいぶん空いてしまったので、仕切りなおして今日から書きます。この間にあったことを、少しずつ。

 この写真は、先日の静岡出張のお土産です。美味しそうでしょう?(笑)