2016/08/31

「故郷の声 コロンビア先住民族」の会場にて

 ぼくたちが毎日を生きている同じ時間、もうひとつの時間が、もうひとつの時間が、確実に、ゆったりと流れている。日々の暮らしの中で、心の片隅にそのことを意識できるかどうか、それは、天と地の差ほど大きい。(星野道夫)

 今日は昼すぎに新宿の空のほうのギャラリーへ。柴田大輔写真展「故郷の声 コロンビア先住民族」、2日目にお邪魔してきた。ザラッとした質感のプリントは、リーフレット作成時に見せてもらっていた仮プリントや画像より、さらに土くささ(?)を出していた。霧深いコロンビア山間部の農村の感じを出すために工夫した結果なのだそう。だから、土くささではなく霧くささと言ったほうがよいか。部分的に写真のエピソードを伝える──解説的にはならない(なれない)、その土地で共に暮らした人にしか紡ぎ出せない詩のようなことばが置かれていて印象的だった。近郊の方々へ。ぜひ足を運んでくださいね。5日まで。

2016/08/30

平坦礼賛

 予想通り台風は逸れて、ちょっと不安定な天気、というくらいですんだ。「休みになった」と書いたら「では、お願いしていい?」という方あり、ノコノコ出かける。夕方、蒲田駅東口からの空。

 明日で8月も終わり、だそう。今年も残り4ヵ月、と思うと、またまた、今年も早いなぁと思いはじめる。7年前の年末に勤めを止めてから、ぼくの日々はどんどん平坦になってきたと感じる。平坦で良いのだ。どう言えばいいか、たとえば、休日を目指して働くというところがない(会社勤めをしていた頃は休日を目指す感触がずっとあったのだが)。「仕事」と「休み」がハッキリクッキリとはわかれていない。何かを楽しみにすることは、ちょこまかとありますけれどね。

2016/08/29

台風と息子

 南へ進み、Uターンして北上するという変わった台風が来ているが、東から西へ曲がってゆく台風というのも珍しい。けれど、最新の衛星写真を見ていると、台風の目がハッキリしなくなり台風のかたちも崩れている。関東には直撃しない進路をとっているし、明日の「外出支援」は予定通りかな? と思っていたら「中止です。お休みです」という連絡が来た。そうすると1円にもならない仕事なんですよ。と、いまさら言ったところではじまらない。そのために時間で働かない仕事もシッカリやっていなければならない。やってます。(それでも痛いのは痛い。)

 とはいえ息子はぼくが休みになって嬉しいかも。畳の部屋で寝転がって休んでいたら、乗っかってきて、「パパ! がたんごとん! がたんごとん! を、おねがいいたしますぅ〜」って言ってた。いたします? わっはっは。──この台風が行ってしまうと、夏がまた一歩去ってゆきそう。夏が得意じゃなくて秋が好きな自分も、ちょっぴりさみしいような気がする。

2016/08/28

中庭ノ空

 現実の生き方でも、一人の人間を変えるのは思想ではなく、ある人間の生き方とか、そういう実質的なものだという気がします。(坂崎乙郎「絵とは何か」)

 今日は数ヶ月ぶりに江古田へ。中庭ノ空が9/3で閉じられると聞いていて、一度足を運んでおかなければと思っていた(閉店が決まったことはブログを見ていた)。ぼくはじつは中庭ノ空が開店する前(準備段階)から、詩人が開くカフェだというので知人を通して知ってブログを拝見していて。でも江古田は微妙に遠く、わざわざ行くことはなく過ごしていた。だから、数年たって、別の知人を通して『アフリカ』を置いてもらったときには、あ〜あの店か! と思ったのだった。詩集は置いてあるけれど詩のカフェという感じは薄く、むずがゆいほど開放感のあるカフェで、閉店を宣言したあとで日替わりカフェとして復活したときには、あぁやっぱり! いい人たちに恵まれた場所だと思った。「中庭」に立ち止まった全ての人たちに感謝します。良い旅を。ではまた!

2016/08/27

通じている

 急に涼しい日。急に蒸し暑さがなくなった。仕事で車椅子を押してビックサイト周辺をウロウロしたけれど、とても過ごしやすくて、助かった。そのかわり雨が降り出して、面倒なこともあったが、蒸し暑くてかんかん照りの日よりは雨のほうが良かった。
 そんなぼくの思いに寄り添って天気が変わるわけではないのだけれど、なんとなく通じているような気がする日はある。それを単に「気がする」だけだと切り捨てるか、「ちょっとは通じるもんだ」と思うかではけっこう違う。ぼくのどもり(吃音)と同じで、調子の良い日とそうでない日がある。もちつもたれつというか。そういえば最近は、行った先で「雨、大丈夫でした?」と訊かれることが多かった。ぼくが到着する前にものすごい勢いで雨が降ったらしいのだけれど、ぼくのいる場所には少しも降らなかったということ。最近けっこう調子が良いのかも?(「運」の?)

2016/08/26

「補助線」を探して

 求められるのは「創造性」よりも、既存のものを活かす「創意」である。……「発明」することではなく、「発見」することである。(大久保賢)

 鷲田清一さんが朝日新聞の朝刊の1面で毎朝、紹介している「折々のことば」をTwitterで見ている。その「折々のことば」が今朝で500回と聞いて、今日は久しぶりに朝刊を買った。そうしたら、今日は相模原の事件からちょうど1ヵ月というので、いろんな記事、寄稿が載っている。いろんな人がいろんなことを言っている。でもぼくには、どの話も、たくさんの人が命を奪われることに、真っすぐにはつながらないような気がしている。「考える」「思う」こと、それと、実際に「やってしまう」ことの間には大きな断絶がある。思いつきで、事故のように起こされた事件ではない。鷲田さんがインタビューでこんなことを言ってる。「問題を考える時の補助線になるような言葉を探しています。」──ぼくも同じで、いつも「補助線」を探してるんだと思った。

2016/08/25

普通って何?

 外出支援という仕事も相変わらずのペースでつづけている。この仕事は儲かる仕事ではないが、働く人の生活は「儲かる」とは別に考えなければならない(生活に必要なお金を稼ぐこと、それと「儲かる」はまた別の話のような気がしてそう書いた)。が、そこ(生活)をしっかり考えている経営者は手を出さない事業らしい(現状では不可能なのかもしれない)。ぼくはそれだけをやっているわけではないからできるわけだ。しかし責任重大な仕事だ。知的障害者と呼ばれる彼らの命を預かっているといっても過言ではないと思う。それを頑張らずにやれたら一番よい。だって、一緒に遊びに行く人が、妙に頑張っていたら疲れない? 4年もやって、ここまで来れるわけだが、ここまで来るのに普通の人なら(まずは生活の問題で)潰れてしまうだろうという気もする。え? 自分は普通じゃないのか? ぼくが出来ていると思うのは、心の奥では、彼らを全面的に信じていることだ。

2016/08/24

バスとやこうれっしゃの旅

 お昼頃、ものすごい大雨になったが、晴れた。では、と、久しぶりに親子三人で神奈川県立近代文学館へ出かける。いま、光海の大好きな絵本『やこうれっしゃ』『おふろやさん』の作者・西村繁男さんの展示をやっていると聞いて、夏の間に行こうと決めていた。山手駅前からバスに乗ると、光海の様子がちがう。ものすごく嬉しそう! 最近、あんなに嬉しそうな彼の顔はなかった。港の見える丘公園前まで、山手駅からはそんなに遠くない。今日はもう文学館は止めてバスに乗って終点まで行く? と言いたくなりながら降りた。西村さんの展示は『やこうれっしゃ』に代表される初期作品(ことばのない絵本、本人曰く「観察絵本」だって!)のノート、ラフの類いがたくさん見られて、とても良かった。光海は、電車の絵がたくさんあって、はしゃいでいた。今度はバスに長く乗ろうね。赤い靴の観光バスにぼくは乗ったことがないから、光海と一緒に乗ってみようかな?

2016/08/23

柴田大輔写真展「故郷の声 コロンビア先住民族」

 『アフリカ』最新号に「先住民族の友人、マウロ」を寄せてくれた柴田大輔さんの写真展「Voces de Nuestra Tierra~故郷の声 コロンビア先住民族」が、8/30(火)〜9/5(月)新宿ニコンサロンで開催される。じつは今回、会場で配布するリーフレットの企画・編集・デザインをやらせてもらったのだけど、いい感じ! 何度も打ち合せを重ねて、いい仕事をさせてもらった。
 この10年間、コロンビアに通う柴田さんが目の当たりにした「内戦」は、先住民族の「日常」のなかにあり、先住民族に彼ら自身の歴史と文化を再発見させていた。柴田さんは断続的に彼らと生活を共にしながら、「日常」を撮り、日常と隣り合わせの「内戦」を収めてきた。その「日常」の時間を鮮やかな写真で伝えている。11/10(木)〜11/16(水)には大阪ニコンサロン(梅田)でも開催予定。ぜひ足を運んでご覧くださいね。

2016/08/22

ことばの再定義と夏の打ち上げ

 吉祥寺美術学院の「サンデー・ワークショップ」3週目(全4週)。広島在住の美術家・中水法見さんによる「美術に近づくために」と題されたセッションで、アトリエにはたくさんの本が積まれていた。詩、哲学、言語学、化学、etc. から、中水さんが若いころに触れて美術を志すきっかけになったカンデンスキーの絵に近づいてゆくという、講義と朗読、実験(?)とトークが混ざったような時間。話を展開していくうえで、ことばの定義の確認(あるいは再定義)をくり返していた。主に「ことば」によるセッションだったという点では、ぼくの担当した回に近かった(ぼくの企画には講義的な部分が殆どないが)。
 夕方に終わって打ち上げ。少し早い、この夏の打ち上げ、だった。気づいたら終電を逃してしまい(気づいたら、というのは言い訳です)久しぶりにスタッフの家にお世話になったが、台風が近づいているというので吉祥寺駅を4時半に出る始発電車に乗って帰ってきた。久しぶりに台風らしい台風に家が揺さぶられている。

2016/08/21

サウナ駅

 とにかく蒸し暑い。昨日の外出支援では、なぜか「日テレ」に行きたいとのこと。新橋で降りて「日テレ」に向かうとイベントをやっている。が、彼はぶらぶら散歩をするのが好きで、お茶休憩もしたがらない。ずっと歩きっぱなし、立ちっぱなし。疲れて、もうそろそろ帰ろうと言いながら新橋駅に戻ったら、ホームで、来る電車に乗ろうとしない、どうやら、快速運転中で通過してしまう京浜東北線がこのホームに停まる時間まで待つ、とのこと。しかも、ホームの階段上に待機していて、通過電車があるたびにルンルンと階段を下り、上る、ということを延々とくり返している。かれこれ1時間近く! 「支援者」は、サウナのようになっているホームで待ちながら、これには参った。気を失いそうになる。

2016/08/20

「モーニング・ページ」の1冊目

 何かに強く惹かれ、それに出会うことができたときの喜びは、自分の全身が記憶する。(大貫妙子)

 春から久しぶりに再開した「モーニング・ページ」の、最初のノートが今朝で全ページ埋まった。1日1ページしか書かないので、何ヵ月もかかったが、なるだけ少しずつ、じわじわ書いてゆくのが自分には向いている気がしてる。このノートのおかげで今回の『アフリカ』が無事に生まれ、新しいアイデアがたくさん生まれた。最初のページには「メディスン・ホイール」(インディアンの人たちに伝わる輪の絵とその解説)のメモがあり、次のページには3月下旬、アトリエでこれからの1年について話し合ったときのメモがある。今年のはじめに読んだ細野晴臣さんの文庫本『アンビエント・ドライバー』の影響もあった。そこからは自由気ままに思いつくことばをずっと書き連ねた。読者はいない。自分すら読者ではない。が、自分自身はたまに、ちらっ、ちらと覗いて、少しだけ「いただく」ことをしている。新しいノートの準備はとっくに出来てる。

2016/08/19

おおたTSネット

 神よ、与えたまえ、 変えることのできるものを変える勇気を、 変えることのできないものを受け入れる冷静さを、 そしてこの二つを識別する叡知を。(ラインホルド・ニーバー「冷静さの祈り」)

 昨夜はしむらまさと君の「支援者」として、ふたりで「おおたTSネット定例会」にゲスト参加。「おおたTS」は「触法行為に至ってしまった障がいのある方を地域につなぎ、地域で受け入れていくためには、何ができる?」を考える会(とぼくは理解しています、合ってる? 参照:「東京TSネット」ウェブサイト)。相模原の殺人事件が起こってから初めての例会で、その話をずっとされていた。ぼくもコメントを求められて、思いつきでいろいろ喋った。メディアではもうあの事件のことは忘れたようになってる、という指摘もある。信じられないな。よく平気だな。難しい問題にぶち当たったときに、ぼくがいつも思い出す、ニーバーの祈りは、帰ってきてから思い出した。

2016/08/18

「いすきあ立川」と『からすのチーズ』

 立川駅の近くに今年の春、オープンした「いすきあ立川」へ初めて行ってきた。「いすきあ立川」は、精神障害のある人たちのための「障害者就労継続支援B型事業所」だ。ようは、就労に向けて準備中の人や、就労は難しいけど支援を受けながら少しずつ働きたい人のための「仕事」の場。「いすきあ立川」の特徴は、受注した作業をこなすだけじゃなくて、大きな厨房があり、そこでお弁当をつくって配達・販売したり、カフェ営業をしたりもしているということ。「生きづらさ」を抱えた人なんかが、ふらっと立ち寄れる「場」を開こうともしている。今後はセルフヘルプ・グループなんかの活動の場にもなるようだ。何を隠そう、「いすきあ立川」を立ち上げた中田智子さんは、ぼくには吃音(どもり)のお友達で、いわばセルフヘルプ・グループの縁なんだ。で、訪問して入ろうとしたら、『からすのチーズ』の絵が迎えてくれたのでビックリ! 委託販売をしてくださることにもなったので、平日の13時〜16時と短い間ですけど、お近くの方はぜひよろしくお願いします。

2016/08/17

眠ってるビニール・シート

 自分でつくった4日間の「夏休み」も今日まで。早朝に台風が近くを通り過ぎて行った模様だけど、「念のため」と雨漏り対策で敷いておいたビニール・シートは、朝起きると「お守り」の役割を果たして眠っていた。「休もう」とするのにも疲れてきたので、明日からは通常モードに戻ります。

2016/08/16

休みと蚊帳

 休みと言いながら原稿を書いたり組版の仕事をしたり。それって休み? と思うが、昨日と今日は正真正銘の休みだ。何の仕事もしないと決めて、昔、観て大好きだった映画のDVDを借りてきて観たり(ちなみに『水の中のナイフ』ね)長門芳郎さんの本『パイドパイパー・デイズ』を読みながらレコードを聴いたり、でも、ま、そんなことをやって酒でも飲んでいたら時間はあっという間に過ぎる。残り1日の休み(家にいられるという意味)はまた少し仕事をします。早急に書かないといけないものもあるので。

 写真は「てんと〜むし〜」をやってる光海の図。蚊帳は彼が生まれたあとの夏から毎晩吊っている。もう2年がたつんだな。

2016/08/15

「敗戦」記念日

 ──自分はね、すぐにでも国の役にたつ人間をこしらえたい、という声をいく度も聞きました。なんて言い草だ。こういうことを言う者は、国を喰いものにしているんです。(小川国夫『弱い神』より)

 8月15日、終戦記念日と呼ばれている日。だが、今日、たまたま読ませてもらったある方の話によると、戦地へ行って戻られたその方のお父さまは「敗戦記念日となぜ言わない?」と言われていたとのこと。「敗戦」を認めたくなかった政治家や知識人の流れがあるのかもしれないね。ぼくも10年ほど前に(もう亡くなられてしまった)ある方から「軍国主義の大合唱は大嫌いだったが、民主主義の大合唱も同じくらい嫌だった」という話を聞いたことを昨今の政治状況を見ていてよく思い出す。ぼくの師匠・小川国夫さんも10代で体験した日本国内の「戦争」を亡くなるまで書きつづけた作家だった。晩年の大作『弱い神』には、静岡の田舎にやってきた「戦争」が生々しく描かれていて、いまも生きよう生きようとしている。

2016/08/14

音楽を残してくれた店

 今日からぼくも数日のお盆休みに入った。個人的な休みの定義はシンプルで「家にいられる」というだけ。「つくる」仕事にゆったり取り組みながら(試行錯誤が要る)サンデー・ソングブックを(もう20年以上、毎週、聴きつづけている──今日は久しぶりに家にいて放送時間に家族三人で)聴き、少し昼寝もして仕事もまぁ進んだという、理想的な休日? 夜は Inter FM に変えて Brakan Beat から始まる夜の音楽番組を聴きながら過ごす。今夜の Barakan Beat にゲスト出演していた長門芳郎さんはいま渋谷のタワーレコードで復刻「パイドパイパーハウス」のコーナーをつくっている。あそこは行くたびに困る。全部のレコードが欲しくなるから。いまの自分には殆どを買えないね。でも、ずっと聴いてきたから。世間でイケてると思われている音楽を置いて売れた店じゃない。自ら良いと思うものを集めて支持された店。昨今のセレクト・ショップとは全然ちがう。そこがなければ忘れ去られていたような音楽を残してくれた店なのだ。

2016/08/13

まだ聞こえてるよ。

 『アフリカ』最新号、珈琲焙煎舎では昨日(12日)から発売中。今日はぼくも足を運んで、ポップ(ことのは山房作)を置いてもらってきた。店頭で見てネ。もちろん珈琲も飲んで買いました。店主さま、いつも美味しいをありがとう。

 「雑誌をやること自体が目的ではない」なんて、どうして書いたのか、自分でもよく覚えていないのだが、「つくらなければ」と思ってつくるものに、嫌気がさしていたことは確かだ。できれば、本なんか、ひとりで読んでいたかった。その本は、さり気なく、そこにいて、どう? と小さな声で呼んでいる。その声はぼくにだけ聞こえている。その感触は、最近の本屋からはほとんど感じられなくなってしまったが(「個性派」と呼ばれる書店であればあるほど聞こえなくなってしまうのはなぜだろう)、ぼくのからだのなかには残ってる。まだ聞こえてるよ。

2016/08/12

『アフリカ』最新号の表紙

 雑誌をやること自体が目的ではない。(『アフリカ』2006年8月号の編集後記より)

 2006年の8月12日に『アフリカ』という雑誌の2006年8月号をいきなり「出す」ことをしてから、今日で丸10年がたった。10年前の表紙(切り絵)は「蝶」で、10年後の表紙(同じ作者による切り絵)は「親指ピアノ」だ(ンビーラとかカリンバとか、アフリカの各地によって名称が違う、かたちや大きさも様々)。先日、最新号の編集作業のなかで、10年前のデータを開いてみたら、お蔵入りにした自分の原稿があって、驚いた。全く記憶がないからだ。読んでみたら、「親指ピアノ」にかんする短いエッセイなので、たぶん、雑誌の名前を決めてから、少しは「アフリカ」(あの大陸の名前)にかかわりのある話を載せたらどうかと思ったのだろう。だろうか、というくらいしか言えないが、とにかくそのときはボツにして、今回表紙になって生きたわけ。「雑誌をやること自体が目的ではない」というのはどういうことだろう。その話はまた明日。

2016/08/11

吃音の少年の話

 僕はいつだって現実を直視することはできなかった。意識して今の状況から目を背けようとする行為は、不安が過ぎ去ったあとから生まれてくるもので、不安に支配されている時やどもっている時には、無意識のうちにマイナスの感情が身体を支配し、何をすることもできない状態になった。(鈴木永弘「春の夕暮れ」〜『アフリカ』最新号より)

 今回の『アフリカ』にはまた、吃音の(どもる)少年の話も載ってる。出産の瞬間から、成長していく過程で、人の口から音が出て、「話す」ということがどういうことなのか。口からものを入れたり出したりすること。こどもが「外」の世界へ出て行くということがどういうことなのか。そこに発生する「不安」とか「恐怖」の感触。いろんなことが、中学三年の春を迎えた彼によって語られてる。ぼくもいろんなことを考えていたし、考えてる。自分のなかの吃音にも、いろんな時期があり、いつでも呼び出せる気がしている。

2016/08/10

「自己」と「表現」

 嘆いているのではない。喜んでいるのでもない。何かを表現しているのでもない。(アシケ・ラカン「私の歌」〜『アフリカ』最新号より)

 今週中にはお届け… と昨日、書いたばかりの『アフリカ』発送作業に手間取ってます。珈琲焙煎舎では今週中に発売開始。定期購読者の皆さまへは今週中に「発送」になりそう。お待ちくださいね!(ひとりでやってるもので、すみません。)

 ぼくはいろんなことばにひっかかる人で、ひっかかるからあえて使わないことばがたくさんある。たとえば、「自己表現」ということばを使わない。「自己」にもひっかかり、「表現」にもひっかかるからヤッカイなのですヨ。「自己表現」ってどんなのだろう。それで、とりあえず、ぼくのやっていることは「自己」でも「表現」でもないかもね。と言ってみることもある。

2016/08/09

シンクロ

 私は自分の子供を産んでから、母性とはなんたるかを考え続けている。手放しで子育ては素晴らしい! 楽しい! とは言えない。(犬飼愛生「母と私」〜『アフリカ』最新号より)

 『アフリカ』最新号(第26号/2016年8月号)のページを、アフリカキカクのウェブサイトにアップしてます。上に引用したような言葉は、すごく重要ではないんだけど、読む人のきっかけになれば… と思って気をつかいつつ書き写してるけれど、今回、犬飼愛生の詩とエッセイ、髙城青のエッセイ漫画、芦原陽子の母乳日記は、申し合わせたわけではないのに、どこか相通じて(シンクロして)いる部分があり、『アフリカ』にはよく起こる出来事だったと言えます。定期購読の皆さんへは今週中にはお届けできそう。珈琲焙煎舎での販売も今週中に、という予定。おたのしみに!

2016/08/08

夢を描いて

 学びとった力をひとつの形にまとめ、一定の方向に向けなければならないときがある。(ナタリー・ゴールドバーグ)

 昨年から始まった夏の、吉祥寺美術学院での「サンデー・ワークショップ」、今年はぼくが第1回担当で、「夢を描いて」と題して3時間の「ことば」のワークショップをひらいた。ひとりひとりの「夢」への、さまざまな糸口、切り口の盛り合せ。読んだり、語り合ったり、書いたりと忙しい。「お金が幾らでもあったら何がしたい?」「理想の環境は?」「自分だけの夢と他人と共有したい夢」「実現できる夢とできない夢」「50年後の自分になって今の自分へ手紙を書いてみよう」等々。「夢について深く考えたことがなかったが、人生にとってじつはとても大事なことなのかもしれない」「この社会の未来は暗いと感じていたが、50年後の自分からは大丈夫と言われた気がした」──さまざまな想いが寄り合っていい時間になった。

2016/08/07

〈自分〉の内側と外側

 メイシーは、湾岸戦争への向きあい方や、ワークショップを通じて、一人ひとりの人間と世界中のできごとが深くつながっていることを実感させてくれた。しかも、自分自身の存在の根っこを探っていく精神世界と、社会の現実に関わっていく社会変革の道を、一つのものとしていたことに感銘を受けた。(中野民夫「ワークショプ」)

 自分の内側へ向かうベクトルと、外側へ向かうベクトルがある。内側へ向かうほうが疎かになっていると、人は〈元気〉をなくす。しかし、そればっかりでは、社会ではやってゆけない。そのバランスが崩れた状態を、仮に、〈障害〉と呼んでみよう。──ぼくのワークショップでは、内側へ向かうベクトルを大切にする。いまは普段、そちらのほうが大切にされていないと感じるからだ。でも、もちろん人が集う場だ。外側へ向かうベクトルは自然と生まれる。自分が自分と出会うというのが困難な時代を生きているような気がしている。ぼくも、たまに見失う。何度でも再会する。

2016/08/06

『アフリカ』第26号(2016年8月号)

 「なんでそんなこと言うの?」というと「何でもないよ、そう思うだけ!」と返す。(柴田大輔「先住民族の友人、マウロ」より)

 『アフリカ』の最新号が本日納品。我が家のふたりには、いち早く読んでもらってます。今週末はワークショップやら何やらでバタバタしているので、発送も販売開始も数日後になる予定。もう少しお待ちください。

 今回は、紛争のつづくコロンビアの農村地帯で約10年、写真を撮りつづけてきたジャーナリスト・柴田大輔さんがエッセイを寄せてくれてる。彼は新宿(東京)と梅田(大阪)のニコンサロンで夏の終わりから秋にかけて写真展を控えてる。詳細はまた。

2016/08/05

ぼくのハンディキャップと事前準備

 数日後に控えたワークショップの準備をしつつ、パソコン仕事をしつつ、光海と留守番の日。ワークショップなりトーク・イベントなり、そういうものにかんしては、ぼくは「話す」ことにハンディをもっているので、とにかく準備がどこまで出来るか、そのことにこだわるようになった。たまに、ぼくの司会を「上手い」と言ってくれる人がいる。それは思い違いで、実際にはとっても下手だ。ただ、事前準備をしっかりやるようにしている。事前準備とは、地図を描くことだ。しかも、その地図は、当日、その場で崩れるかもしれない。だから地図に縛られすぎる人にはぼくのやり方は向かない。その場で潔く準備してきたものを捨てる覚悟がないと出来ない。捨てるつもりで準備しているような気すらしている。しかも、そのために書いたり消したりをくり返す。根気のいる仕事だ。そのことは、市川のダイバーシティ工房で学んだような気がしている。ある人はぼくのやり方を「徹底して結論を出さない」と言った。そうかもしれない。各々がどう感じてどう考えるかを、ぼくが提供するつもりはないからネ。

2016/08/04

葛藤

 けれど、建物というものは、人の誕生や死、歓喜や悲哀の記憶をその歴史に抱え込んでこそ、味わい深く、独特の風格を帯びてくるものなのである。そしてその風格は(人の個性に二つと同じものがないように)それぞれ違う。(梨木香歩『エストニア紀行』)

 ぼくは「とにかく生きていることはいいことだ」と「生きてる」を全肯定してるんだけど(それ以上あまり考えてない)「でもさ、○○になってまで生きていたくないよね?」なんて言われたら、ちょっとは葛藤が生まれないでもない。例の事件の〈評論家〉になる前にそっちの話をしよう。答えはないよね。という話をしていた。それでも、ぼくは(どんな状況でも)「生きる」可能性が少しでもあるほうに向かうかなぁ。どんなに苦しくとも(苦しいということは生きているということだから)。そこでもし死んだほうがよいとするなら、生死とは別に、人の存在を確かにするものがいる。そうすると宗教の話になりそうですね。

2016/08/03

頭ではなく手を動かせ

 絵を描くのは、初めから自分にも何を描くのかわからないのが自分にも新しい、描くことによって自分にないものが出てくるのがおもしろい。(熊谷守一)

 先月は(この)ブログは休んでいたが、「モーニング・ページ」はずっとやっていた。どんなことでもいい、心に浮かんだことを毎朝書いて、その日のページを埋める。5月に帰省して帰ってきて以来、1日も欠かしていない。『アフリカ』最新号に載せた「降りつもる夜」の原液は、その「モーニング・ページ」に、ある朝、現れた。誰にも見せない(自分にすら簡単には見せない)という、最高に“閉鎖的”な環境がこんなに人を生き生きさせるものだろうかと思う。書き出しながら、そこに何が出てくるか自分でもわからない。「もっと考えて書け」などと言う批評家(自分のなかの)は無視しろ。とにかく手を動かすんだよ!

2016/08/02

花火は思い出

 横浜の夏の大一番(?)、今日は神奈川新聞の花火大会の日だった。昨年につづいて今年も家族三人で出かけてきた。行きは電車で関内まで行き、そこから歩き、帰りはものすごい数の人が一気に移動するので、ずっと歩きで。
 神奈川新聞の花火大会で思い出すのは(昨年も書いたかもしれないが)府中へ引っ越す前年の夏に、大阪から知人を訪ねて横浜〜東京へ遊びに来た際に連れられてきたのが同じ花火大会だった。あれからもう7年。あのときはまさか自分が横浜に住むことになるなんて思いもしなかった。不思議な気がする。
 光海は昨年より花火が「わかる」ようになっていると思うが、花火が始まるまでは「どっかぁんさくらじまぁ」なんて言っていた。さくらじまじゃないよはなびだよ。パパはカメラ持参で光海とママを撮るつもりだったけど、途中から花火を撮ってみたくなってパシャパシャやっていた。安物のカメラで、上手くは撮れない(それがまた面白い)(写真撮ってないで花火見ろよという気がする)。まぁマシな感じで撮れたのが、コレ、そして、コレ

2016/08/01

噴水広場

 今日は光海を連れてみなとみらいへ。先週、彼とママが体調を崩して大変だったときに、ぼくの地元の母と電話をした際に、「ばーばがこうくんにプレゼントかってあげる、ぱぱにおねがいするからすきなものをかってもらいなさい」と言われていたので、彼が最近大好きな「トーマス」のオモチャを買い、三人でパスタ&ピザのランチ(サラダとパンの食べ放題つき)を食べ、横浜美術館の前にできた噴水広場で水あそび。光海は大満足? 最近よく泣く彼も、今日はご機嫌でした。とはいえ、帰ってきたらまたダダをこねて泣いたりしてますケド。こういう日々は10年前には、いや5年前にも、夢にも見なかった。

 「オール・アバウト・アフリカンナイト」を更新。とりあえず目次をアップしてます。詳しいことはまた追々。発売は来週です。