2016/02/29

レッキング・クルー

 今日は2月29日、4年に一度(うるう年)の、というので、ずっとサボってきたことをやろう、というので朝から映画を観に行ってきた。映画には滅多に行かなくなってしまった。時間の拘束があるのと、経済的な問題もあるか。個人的に音楽を聴いたり本を読んだりに比べると優先順位が低いみたい。で、観たのは音楽ドキュメンタリー(結局それ)で『レッキング・クルー』という映画。1960年代に一世を風靡(密かに、というのも音だけが流布して名前は知られなかった人たちだから)したLAのスタジオ・ミュージシャンたちの回想録。その時代、その場所でないと生まれなかった「サウンド」の物語でもある。知らなかったエピソードもけっこう出てきて、楽しみました。
 ドラマーのアール・パーマーがこんなことを言っていた。「生活していくためにロックを好きになったんだ」

2016/02/28

人との交流、木との交流

 道草の家の(じつは隣の家の裏庭にある)タイサンボク、2年前の大雪で姿を変えて以来、少しずつ傾いてきている気がする。ぼくの部屋から見たときに、2年前までは木の上のほうまできれいに見えていたが、いまは窓から見上げなければ見えない。でもこの木は切ってほしくないなぁ。この木が気に入ったというのも、この家を選んだ理由のひとつだったから。しかし、道草の家からタイサンボクのある家のほうには通路もなく交流がない(出入りのあるほうとは交流があるのですが)。人とは交流がなく木とは深い交流があるという面白い縁だ。

2016/02/27

苦学生

 「パオーンちゃん」をおんぶして、なにしてんの?

2016/02/26

「自然な感じ」の難しさ

 昨日の外出支援はとてもよかった。当人、遊びに出かけるのが嬉しくて、うきうき、出かけて帰る。自然な感じで。でもその「自然な感じ」をサポートする「支援」という仕事には、感覚的な細やかさがいる、体力もいる、奥が深すぎる。やっぱり「アルバイト」でやる(やらせる)のには限界がありますね。

 ムリして外出する必要があるかな? が最近のぼくの口癖。とはいえ「外出」してこその仕事。矛盾しているようなしていないような。

2016/02/25

木々と話そう。

 しかし、昔は「貧乏人の子だくさん」と言われていたが、それでも子どもは成長したものである。少子化の原因は生活費の問題ではなく、親の生活意識の問題だと思うので、子育て支援を金銭的なものに置き換える政策は、どこか違和感がある。(橘川幸夫『森を見る力』)

 生活意識の問題がそのまま生活費にもなだれ込んできている。なので生活費の問題に現金をつぎ込んでも根っこの問題は解決しないわけだ。とはいえこちらは生活費の問題に日々巻き込まれて追いまくられる。根っこから腐っている木をどうにかしろと言われて生きているような感じかな。超能力でも鍛えるか。なんとかなるかもしれないが口癖。子どもの子どもの代くらいまでには。

2016/02/24

自問自答

 昨年の、おおきく捉えると夏以来、自分のなかで、それまで動いていた「なにか」がずっと止まっているような気がしている。が、冷めきった(という気がする)自分の心のなかを覗きこむ勇気も、余裕もなかった。なかった、と過去形で言うのは妙だ。余裕もない。日々暮らしてゆくので精一杯。そのなかで、自分に何ができるか。しかし、そんな試行錯誤をつづける、ちいさく燃える火のようなものが消えたと思ったこともない。
 以前、「他人(の意見)はどうでもいいんですね」と言われたことが二度ほどあった(覚えていないだけでもっとあったかもしれない)。たしかに、ぼくには他人(の意見)はどうでもいい。他人(の意見)を基準にして生きている全ての人に、大丈夫か? と言いたいくらいだ。でも、お互いのなかに燃えている火のようなものは、どうでもよくないね。
 今日は部屋の片づけばっかりしていた。もうすぐ、という気がしてます。なんだかひとりごとのようなことを書いてしまった。

2016/02/23

風まかせ

 最近、ニュース(ことばの通り「新しい情報」)はインターネット──といってもニュース・サイトではなく(ぼくの場合)Twitterを通して入ってくることが多い。ミュージシャンの訃報は以前ならラジオを通してが多かったが、それもTwitterになった。
 今日は、朝一番で村田和人さんの訃報が飛び込んできた。えっ? ウソでしょ? なにかの間違いじゃないの? と思ったくらいだけど、息子さんが伝えたブログを読むと、癌闘病中だったらしい。近年は毎年アルバムを発表するくらいレコーディングにもライブにも精力的だった。で、オフィシャル・サイトを確認したら、「3月までのほとんどのライブが中止となりました! 本当にスミマセン!! で、いつものキャッチコピー、ライブはやれる時にやっておこー! 見れる時にみておこー!」だって。波まかせ、風まかせ。空のうえで、次は、どこへゆく? なんて言ってそう。山下達郎プロデュースのファースト・シングル「電話しても」を聴いてます。明日また会える。明日また会える。

2016/02/22

なりゆきの作法

 今日、2月22日は、ぼくたち夫婦が入籍をした日、つまり結婚記念日。2012年2月22日、あれから4年がたちました。駆け足な結婚の発端は、2011年9月のある夜に突然、「道草家を、捕獲!」とTwitterでぼくが「捕獲」されたあと、11月13日に、ブラフ18番館で彼女がひらいた朗読コンサートにぼくが足を運んだのがきっかっけだった。入籍の日にもブラフ18番館へは報告に行ったっけ。というので、今日は息子も一緒に三人で出かけてきた(徒歩圏内です)。結婚直後に「Michi-Kusa」で公開されたエッセイに、そのころのことが書いてある。「Michi-Kusa」の活動は終えたそうですが、いまはまだアーカイブが公開されているので、ぜひご覧ください。「なりゆきの作法」というの。ここに出てくる「ある小説」というのは「化石談義」というタイトルの小説なのだけど、雑誌はもうない(在庫が)ので、あらたに、読んでいただけるようなかたちにしたいと思ってます。

2016/02/21

スーパーフラット

 外出支援のついでに横浜美術館へ足をのばす。村上隆さんのコレクションを展示する「スーパーフラットコレクション」という企画展をやっている。これは圧巻! 個人コレクションでしょ? と思わないほうがよいかもしれない。数も多いけれど、立体のおおきな作品もそれなりの数あり、なかには桁外れにおおきな作品もある。と思えば「雑巾」が展示されてもいる。もちろん絵画もあり写真もある。その縦横無尽ぶりは横浜美術館よりスゴいかも。

2016/02/20

彼のペース

 退屈を友とすれば大抵のことはうまくいく。(細野晴臣)

 『からすのチーズ』の画伯・しむらまさと君の参加する絵画教室ノコノコに「お供」する。いつも通り仕事はのろい(?)が、「写真撮って」「ほら、ここ」と注文は多い。おれっていつからカメラマンだったっけ? と言いながらパシャパシャ撮る(スマホのカメラで)。「のろい」と書いたが、彼くらいのペースが自然で、こちらが不自然だという気もぼくはしないでもない。でもきっとぼくが彼のペースを手に入れても、この社会ではきっと生きていけないだろう(「障害者」になるしかないわけか)。いや、彼自身、内心苦労していることも多いはず。だからこそぼくは彼から学ぶことができる。お互いにがんばろうという気になった。

2016/02/19

家と生活

 この小さい広場から なぜ遠くへいくの?(ロルカ「小さな広場のバラード」)

 今日は仕事の前に、家族三人で駅前の不動産屋へ行き、家の更新をしてきた。久しぶりに会う不動産屋のふたりも元気そう。光海に会わせることもできた。最近は更新のタイミングで家賃を上げるという例も多いそうだけど、うちにかんしては、大家さんも間に入ってくれている不動産屋も良心的で、現状のまま。更新料もかなり安いほうだろう。それでも我が家は苦しい、ギリギリな経済状況なのだけれど… ほかの物件を横目に見ながら、恵まれているほうなのかもしれないね、と話しながらいったん帰宅して昼ご飯にした。さ、今日もぼちぼちがんばろう。

2016/02/18

チョコ・デビュー

 昨日、道草の家にもバレンタイン・チョコが届いた。今年は1通だけ!(ぼくはモテないからサ。)(いや、光海もモテないか?)(ちょっとまて。バレンタインだからかな? っていう贈り物がもうひとつありましたネ。失礼! あと身内からもネ。)(そんなことより…)嬉しかったのは光海へのチョコが入っていたこと。毎年、手づくりのチョコをくださる親しい方から。人生初チョコを食べた光海の反応は、ん? うまいな、これ。もっと! という感じ。少しだけ大人の仲間入りをした気分?

(1通、と書いたけど、なかには三人の女性からの贈り物チョコが入っていて、一気には食べられないので、ゆっくりいただきます。ありがとう!)

2016/02/17

「次」の段階

 「人生はいくつかの時期にわけられる」というのはどういうことなのか書こうとしたのだけど、『アンビエント・ドライヴァー』のどこにそれが書いてあったか、わからなくなってしまった。そのページを開かなくても記憶で書けるのだけど、そのうち見つかるかもしれないので、それまで待てという意味だと思ってしばらく待ってみる。

 ぼくは昨年の後半から、何だか「次」の段階に入ったような気がしている。でも、いまはあまり大きな飛躍ができない。子が幼すぎるからね、ということを含めてうちのいまの状況を考えると、とにかく日々平穏に過ごしたい。というより、そういう「次」の段階なのだ。そう思うと、この国は、とても生きていきづらい。とにかくただ生きていくだけのことにお金がかかりすぎる。不作の年も大量の年貢を納めさせて農民を苦しめていたという社会と何らかわりない気がしてくる。話がそれたような気もするけど、ぼくの「次」がどうなっているかは自分でもわからない。それがわかったらそれは「次」じゃないでしょ?

2016/02/16

もたもた家

 お元気ですか? と聞かれて、はい元気です、と答えるのがどうも苦手。まぁね、とか、下手すると、ちょっと疲れてますね、などと言いそうなので困る。相手はそんな答えを求めていないのに。今夜は、いただいてメールにたいして、相変わらずもたもたしてます、と返すのを思いついた。実際にそう書いて返事を出したのだが、どうだろう。イマイチか。道草家(みちくさか)をお休みして、もたもた家(もたもたか)をやろうかな。いま読んでいる細野(晴臣)さんの『アンビエント・ドライヴァー』(ちくま文庫)によると、人生はいくつかの時期にわけられるらしい。いま自分はどこにいるか… その話はまた次。

2016/02/15

春、みっけ!

 異常は異常として「きちんと」憂い、そのおまけにちょっぴり楽しみを見つけたら、遠慮なく味わう。でなくてどうしてこれからの長い「終末」を生きていけるのだ……。(梨木香歩「知床半島の上空を、雲はやがて」)

 昨日の「半袖日和」で、道草の家の周辺の木々たちはすっかり(春だ!)勘違いしたようで、ちいさな「庭」では一気に梅の花が咲き、ふきのとうがポンポンと顔をだした。妻は喜んで外に出て「もぎって」きてくれて、ふきのとうは天麩羅にしてお蕎麦と一緒にいただいた。ぼくは運転免許の更新にようやく行ってこれた。1日があっという間だ。ちなみに、庭の梅がこんなに咲いたのは、ぼくらがここに引っ越してきてから初? みたい。

2016/02/14

傘の墓場

 昨夜から春の嵐で、今朝、道草の家の周辺は台風の日のようだった。ぼくも外出支援の仕事に向かえるか… と心配したけど、なんとか大丈夫。家の周囲の様子を見ていると「今日はムリじゃない?」と感じられる(草木が鬱蒼としている、駅から少し坂をのぼった高いところにある、etc.)のだけれど、街のなかは平穏、ということはこれまで何度かあった。最近の街は風も死ぬような場所なのか(いま読んでいる細野晴臣『アンビエント・ドライヴァー』にも「かつて東京ではよく風が吹いた」と書かれている)。で、なんとか駅まで下って行き、トイレに寄ったら、トイレ前のゴミ箱がえらいことになっていた。傘の墓場か… ふいに、仲間の死体を捨てて逃げて行く兵士たちの姿が浮かんだ。で、なんとも言えない気持ちになり、ぼくは生きたビニール傘を抱いて仕事へ行き、しっかり持ち帰ってきた。

2016/02/13

長さ、短さ

 真実は一巡して初めてわかる。(『聖書』)

 そういえば、7日だったかな、ぼくが横浜に引っ越してきてから丸4年がたった。とりあえず彼女の住んでいた部屋(いまの家から徒歩5分くらいの場所)で一緒に住み(1ヵ月だけ)、道草の家にはふたりで一緒に引っ越したのだった。横浜に来て最初の食事(晩ご飯)はパスタじゃなかったかな。トマトソースの。
 4年間、か。もう4年もたったのか、という気がする。じつは、ぼくがここまで1か所に留まっているのは、1998年の春に地元・鹿児島を離れて以来、初めて。それまでは、2〜3年ごとに引っ越してたから。ここには、もう4年。その4年が、思えば、なんだか短いように感じられる。こんなことはぼくの人生でそうない。おもしろい。

2016/02/12

「あー わからない わからない」

 光海のからだのなかには、ことばがどんどん吸収されてゆく。すさまじい勢いで! 最近、もっとも(われわれ夫婦が)ウケた彼のことばは、「あー わからない わからない」。(※「あー」のところで声が高くなるのがポイント。)
 ん? なんだっけ? と思ったら、先月ぼくが古本屋で見つけてきた『かばくんのふね』のなかで、降り止まない雨のなかで、いつ止むの? と動物たちがくり返すことばなのだった。(親子で大好きな絵本『かばくん』に続編(?)があったとは! なんて言いながら愛読してます。)
 今日も光海は言っている。あー わからない わからない。パパもママもわからないなー。

2016/02/11

馬たちと

 それもきちんと声に出し、自分の気持ちに響かせて、そこに移さねばならないという。心のなかで思うだけでは祈りは通じないと、ネイティヴ・アメリカンは教えている。(細野晴臣)

 今日は終日「おやすみ」にした。「パパと。ママと。ぱっかぱっかおうま」と、前日から約束していたし。歩いてすぐの場所におおきな原っぱの公園があり(競馬場跡だ)、池があり、林があり、散歩道があり、そして馬たちがいる。今日の午前中は親子三人で馬たちに会いに行き、おおきな滑り台で遊び、ボール遊びをしてきた。素晴らしい快晴で、「ふじちゃん!」(富士山)もおおきく見えていた。光海はお出かけが好きだ。そしてよく食べる。夜は夫婦で飲んで、あることがきっかけで以前撮っていた動画をチェックしていたら、光海が生まれてすぐのころの動画が出てきて、「かわいいね」と言いながら親子で見ていたのだけど、ふと見ると妻は泣き出していて、「もうわすれてる」と言っていた。

2016/02/10

手網と釜

 珈琲焙煎舎が先月(今年の1月)から焙煎釜を導入した。焙煎舎は4年数ヶ月前にオープンして以来、ずっと「手網」のみでやってきたのだけど、店主は「手網」にこだわるというよりも「美味しければいい」という人で、今後は「焙煎釜でやるほうが美味しい」と判断した豆のみ焙煎釜でいくらしい(もちろん手網焙煎も止めない)。ただし焙煎舎ブレンドのみ、「手網」と「機械」の両方を出してみると聞いて、飲み比べてみた。
 正直に言うと、ぼくは珈琲にかんして(でも何でも)こだわりがあるようでいてじつはたいしてこだわりがない。つまり美味しければ何でもいける口(だから焙煎舎とは相性が良いのかも?)。焼き方が違えど同じ豆、手網でも機械でも味がわからなかったりして… と恐れて(?)いたのだが、不思議とよくわかる。おもしろい。妻は「奥行きがちがう」と言う。店主は「のどごし?」と言う。手網焙煎は、「生き」がちがうんだな。
 ぼくは、ほぼ毎朝、ドリップ1回、をゆるくつづけてる。いまは自分で淹れる珈琲が一番美味しい。

2016/02/09

「のどかな家」との時間

 「ことのは山房のポケット」を読んで思い出した。道草の家(と呼んでいるこの家)、不動産屋からの紹介で出会ったとき、チラシには「のどかな家」と書かれていた。以前、保坂和志さんの小説やエッセイで「家も人や生き物との時間を記憶する」といった話を読んだことがあり、いいなぁとは思っていたのだけど、「のどかな家」を借りて住みはじめて、やっぱり「家」も生きている、空間も生きている、ということを再認識した。生きものだとしたら、家にも名前をつけてあげよう。で、(だったか忘れたが、自然と)「道草の家」という名前がついていた。道草する家、道草氏の家、道草という家、何でもいい。あれから、4年だ。

2016/02/08

星空

 幼いころに星空を見た経験をもたない鳥は、成長してからいくら星空を見せても定位することができない──つまり、自分の内部に、外部の星空と照応し合う星々を持っていない、ということなのだろう。(略)自分を案内するものが、実は自分の内部にあるもの、と考えると、「外部への旅」だとばかり思っていたことが、実は「内部への旅」の、鏡像だったのかもしれない、とも思える。(梨木香歩「案内するもの」)

 「意識が高い」とか「高い意識」というようなことを言う人たちがいるらしいのだけど、ぼくのまわりにはいないので、どういうことばなんだろう? とある人に聞いたら、「う〜ん。ちゃんとした目的意識をもって。かな?」と言う。ちゃんとした目的意識、ですか。ないねぇ。自分にはサッパリない。でも、梨木さんが書いている「星空」なら、ぼくにもあるかな。ないかな。即答できないや。(と言いながらできていますね。)

2016/02/07

「いいか悪いかの判断を下すのではなく」

 そうやって世間から疎外されてきた人たちが、ダルクとかに来れば、「ここにいていいんだよ」と共感される。「昨日まで薬をやっていたけど、今日はやっていない」となれば、「すばらしい」「よかったね」と褒められるわけです。そこでまずは自分を許す、誰かに許されるという経験なくして、よい方には向かっていかない。ただでさえ彼らは罪悪感でいっぱいになっているわけですから。(倉田めば)

 朝、仕事に出る前に、SNSを眺めて、たまたま流れてきた倉田めばさんのインタビューを読む。今日はこの先を読まなくていいから、ぜひこのインタビューを読んでください。そのあと珈琲焙煎舎へ遅すぎる新年の挨拶に行ってきた。今年もよろしく!(年明けから焙煎釜を導入して、焙煎舎ブレンドは「手網」と「釜」の二種類が販売中。赤いスタンプでわかるようになってる。)

2016/02/06

鳥の話と火山の話

 昨日はしむらまさと画伯と久しぶりに会う。絵画教室ノコノコに行って、晩ご飯。(彼の)自宅に戻り、お風呂を湧かしたり、寝る準備を(ぼくは帰る準備も)したりしながら、昨年、江古田のヴィエイユで(画伯へ)いただいたジョン・グールド『世界の鳥』を見せてもらう。いま、梨木香歩『渡りの足跡』を読んでいるので、ますます興味深い。この絵はワタリガラス、英語でRAVENという。ぼくは10代のころ、The Ravensという有名なドゥー・ワップのグループでそのことばを知った。大型のカラス、と言われるが、梨木さんによると、「目をみはるほど」ではなく、日本で最もおおきなハシブトガラスよりも少しおおきいが、ハシブトガラスのような「獰猛そう」なおでこはない。あとは神話の話を少々。(桜島が噴火したと大ニュースになって、ぼくの実家を心配するメールもありましたが、あのね、桜島はいつも通りです。最近、噴火してなかったようで、むしろ、よかったね。火山のことも鹿児島のことも何も知らない気象庁が大騒ぎしたいだけのようです。もうちょっとマシな仕事しません?)

2016/02/05

人間らしさ

 夫婦でゆっくり飲みたいとき、光海には「かっきーぶーぶのびーびー(かっこいい車がでてくるDVD)」を見せてお互いにノンビリする。それにしても、この(DVDをみる)姿勢の可笑しいこと! 午前中のんびりしているときなんかも、ホットカーペットに横になってゴロゴロ、「ダメ人間になるね」というので砂場へ連れて行ったりする。どんどん人間らしくなってきた?

2016/02/04

意識の前の意識のようなもの

 何かを作るということは通ってきた道に印を付けていくということに似ている。(石川竜一)

 息子にもつきあってもらって、あざみ野まで石川竜一の写真をみに行ってきた。「考えたときには、もう目の前にない」という個展。あざみ野フォト・アニュアルという企画で、1年前は石川直樹展をやっていてそれもすごく良かったので今年も期待していた。ひとりの写真家の、これまでの作品から最新作まで、ある程度の全貌を紹介する企画で、そういうのは意外と少ない。しかも無料でみられる。石川竜一さんは、ぼくより5歳くらい年下で、沖縄の人たちの、生々しいポートレートと風景で注目されている気鋭の写真家だけど、最新作ではまた違う側面もみせている。いろんな作風があり、一連の写真をみたあと、サイトにもアップされている(会場で配布しているパンフレットでは文字化もされている)インタビューを聴いているとすごく面白い。

2016/02/03

鬼と落花生

 『今昔物語集』に登場する鬼は、さまざまな姿をしている。現代の私たちが「鬼」と聞くときに思い描く姿とは、ほど遠いものも少なくない。(中村茜「鬼の姿」)

 『アフリカ』の最新号より。鬼があんな顔になってしまったのは現代(あるいは近代というべきか)で、神と仏をわけてしまったように(政治的な理由でネ)、鬼と福とをわけてしまったせいで、かわいそうに、あんな顔になってしまったのではないか、今年は、鬼は内! 福も内! にしようか、といったいい加減(?)な話を昨日はしていた。
 この写真のような、かわいらしい鬼のお面は、ぼくの幼いころにはなかったような気がする。実際にはどうだった?
 ところで、ぼくが幼いころ、実家では節分に「落花生」を投げていた。道草の家、今年の節分は落花生が舞ってます。(落花生で焼酎が飲みたくなったというだけ、というのは内緒。)

2016/02/02

あるだろうか。

 「やらなければならない」ことなんて、あるだろうか。「やらなくてもいい」ことなんて、あるだろうか。「どうでもいい」ことなんて、あるだろうか。(このあとは、書かずに置いておくので、づつけて書きたい方は書いてみて。)

2016/02/01

地道な歩み

 そこにはぼくが一度も行ったことのない 場所があるから 日没と一緒に消えてゆく たくさんのことはできないけれど 漂流者になってみるさ(ポール・ウィリアムズ「ザ・ドリフター」)

 ぼくは昨年から残しているたくさんの宿題を、どれも少しずつ少しずつ進めて結果の出ない月になってしまった(でも見えてないだけで微妙に進んでる)。
  いろいろあるけど、機嫌よくやっていこう。機嫌よくできるような状況かって? だからこそあえて機嫌よく「する」のだ。