私は「デーム」とは、「歌」と「楽器の音」と「踊り」と「享楽」という四つの要素が合わさったものではなくて、ありありと生きられている単一の実体であって、私たちのことばが、便宜的にそれらの要素を識別するのだと思った。そこには、一切の拘束から自由に、いかにも確かに、いかにも活き活きと、自分たちの音とからだの躍動を生きている人たちがいる。私はそのとき、逆説めいた意味など少しもなしに、この人たちは「豊か」だと思った。(川田順造)
いわゆる「研究」は、たいていの場合、その対象を「分析」して、場合によっては「分解」もして、その姿をわかりやすく「解釈」しようとする(傾向にある)。しかしぼくはいつもその「わかりやすさ」を警戒している。たとえばぼくは吃音にかんして言われている「解釈」に反発するのだった。その「解釈」に、ぼくは自分の吃音を合わせようと思わない。
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