そのために必要なのは、わたしたち一人ひとりが、できるだけ長く、答えが出ない、出せない状態のなかにいつづけられる肺活量をもつこと、いってみれば、問えば問うほど問題が増えてくるかにみえるなかで、その複雑性の増大に耐えうる知的体力をもつこと。いま一つは、迷ってもいつもそこに根を下ろしなおすことのできるたしかな言葉、そこから別のさまざまな言葉を紡いでゆけるあきらかな言葉と出会うこと。(鷲田清一「濃霧の中の方向感覚」)
SNS(個々人の「ジャーナル」が飛び交ってる)を覗くと、ある部分では、社会にたいして、おそらく、他人にたいして、「正確」で「わかりやすい」ことを求める人びとの声で溢れてる。一方で、「いい加減」ということさえも、自分の感じている「いい加減」で合っているかを気にする言葉も目に入ってきた(それって全然「いい加減」じゃないよネ)。「答え」がほしい? でも、その要求にたいする「答え」なら、じつは誰もが知っていることではないかと思う。
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