2016/04/30

再開の4月

 4月も終わる。ぼくは今月から久しぶりに「モーニング・ページ」を再開した。毎日、というわけにはいかなかったが、1.5日に1回以上のペースで書きつづけている。「モーニング・ページ」の決まりは、何でもいいから毎朝(ぼくの場合はお昼や夕方や夜になる場合もある)1ページ、あるいは2〜3ページを書いて埋める、という、ただアウトプットするだけの作業。その人なりの使い方でよいと思うが、ぼくの場合は、誰にも読ませない、自分ですらすぐには読み返さない(書き終えたらパタッとノートを閉じる、だから手書きのノートである必要がありそう)。くり返すけど、大切なのは「何を書いてもいい」ということ。それによって自分が思っていなかった自分の声が聞けたり、声が聞けるだけじゃなくて行動に出たり、できるようになる。再開の4月、だった。これから徐々にかたちにしていこう。いや、かたちにはならなくていいと言われるかもしれない(自分自身に)。それはそれでいいのだ。

2016/04/29

読み方

 『アフリカ』は、このままでいくと丸1年が空いてしまうことになる。こんなことは初めて。光海が生まれた年だって、空いたのは半年と少しだった。何の文句も言わず(言われているかもしれないネ)待っていてくれる「常連」の皆さんには頭があがりそうにない。と話していたら、「『アフリカ』って何気にもう10年もやってるの? すご〜い!」と言われる。そりゃ〜、だらだらするのだけは得意だからナ。紙(本、雑誌、パンフレット、etc.)と、ウェブと、ワークショップというか「生」の場──ライブと、いま、この場で、何ができるか、何を残せるか、日々試行錯誤しながらやっていると、いまはとっても時間が要る。どんどん時間が必要になってきている。

 さて、光海が指しているのは『アフリカ』最新号(昨年の夏の号)の1ページ目。これ! ここ、いく? いくよ。今週ね。久しぶりだね。(こういう「読み方」もあります。皆さんもたのしんでいてください!)

2016/04/28

「濃霧」の中で

 そのために必要なのは、わたしたち一人ひとりが、できるだけ長く、答えが出ない、出せない状態のなかにいつづけられる肺活量をもつこと、いってみれば、問えば問うほど問題が増えてくるかにみえるなかで、その複雑性の増大に耐えうる知的体力をもつこと。いま一つは、迷ってもいつもそこに根を下ろしなおすことのできるたしかな言葉、そこから別のさまざまな言葉を紡いでゆけるあきらかな言葉と出会うこと。(鷲田清一「濃霧の中の方向感覚」)

 SNS(個々人の「ジャーナル」が飛び交ってる)を覗くと、ある部分では、社会にたいして、おそらく、他人にたいして、「正確」で「わかりやすい」ことを求める人びとの声で溢れてる。一方で、「いい加減」ということさえも、自分の感じている「いい加減」で合っているかを気にする言葉も目に入ってきた(それって全然「いい加減」じゃないよネ)。「答え」がほしい? でも、その要求にたいする「答え」なら、じつは誰もが知っていることではないかと思う。

2016/04/27

時間

 世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう。(レヴィ=ストロース)

 何があっても時はすぎ、春が去って、初夏の香りに包まれてくる。終わってみれば全ては「あっという間」なのかもしれないが、最近、ぼくは自分が高校生のころかな、1995年だったか、その前後の年だったか、たぶん正月休みあけに、自転車に乗って鹿児島市電に沿った道を走りながら(学校へ向かっていたのだろうか)、ふと、10年後、20年後にはこのいまの時間はどうなるんだろう? と思った、その瞬間をくり返し思い出してる。何がどうということもない、そのときは、平凡な日常の一コマにすぎない時間だったのだが。

2016/04/26

豪華

 今日はまた「お昼を挟むがご飯を食べない」支援の仕事。彼は朝、ものすごくゆっくり時間をかけてお母さんがつくってくれた「お弁当」を家で食べ、おそらく帰宅してからまたゆっくりじっくり食べる。そうしないと「食べる」だけで何時間かかるかわからず、彼がたのしみにしている「お仕事」ができないのです。で、ぼくはその彼が「お仕事」している横で遠慮なくお弁当をいただく。今日も妻が準備してくれた。最初は「おにぎりだけでいいよ」と言っていたのが、最近は少し凝って(盛って?)きた。開いてみて、お、今日はなんだか豪華だね!

2016/04/25

ご馳走

 午後、ぼくが仕事に出ようとしていたら、光海が自分用のテーブルにテーブル・クロスをひろげ、木のお皿を並べて… あっ、ご馳走だね! 「いただきま〜す!」「もぐもぐ」だって。

2016/04/24

鼻唄

 私たちは知的に障がいを持っているかもしれません。しかし、心に障がいはありません。(ある障害関係の全国大会にて、当事者のことば、パンフレット『知的障がいをもつ子ども10人の親の意思決定支援』より)

 この社会で知的障害者として、日々をたんたんと暮らし、表向きには(たぶん)心優しい青年である、ひたすらマイ・ペースのように見えるかもしれない彼も、そばにいると、いろんなことに揺さぶられているように感じられる。苦労してる。その苦労を「支援」という名のもと、なるだけ奪いたくないと思う。苦労をある程度ともにすればよいだけだ、でも彼の苦労は彼にしかできない。苦しかったり、悲しかったりすることが、人生たくさんあるけれど、たぶんそれは生きていくうえで必要なものなので、これからも、彼のまわりにいる人が大変だからという理由でなるだけ奪ってほしくないとぼくは願う。鼻唄をうたいながら。

2016/04/22

「ごちゃ混ぜになっている世界」

 心身を挙して色を看取し、心身を挙して音を聴取するに、親しく会取すれども、鏡の影を映すが如くにはあらず。 一方を明らむれば一方は暗し。(道元禅師)

 新年度になって2回目のアトリエ授業。先週の「つかみ」で遊んだ「直観讀みブックマーカー」が壁にベタベタ貼ってあった。ブックマーカー(しおり)の本来の使い方ではないですけれど… デッサンとは──「ごちゃ混ぜになっている世界」(『夜間飛行』)とか、学校とは──「俺はそんな人間じゃない」(『山月記』)とか、見ていて可笑しい。学生に聞いてみると、予備校(塾)によっては、大学生のアルバイトがマニュアル本に書かれている通りのことを「教えて」くれるだけというところもあるらしくて、それを聞いてぼくはびっくりしたが、そうかぁ。ぼくは何も教えない。教えても仕方がない。各々の「学び方」をともに探ることはしっかりやります。それから、ふかく読んだり、素早く読み飛ばしたり。いろんな「読み」や「対話」を試してゆきます。

キーキーつき

 すごく重大な意味があるように思うんだけど、それが何なのかまったく分からない。(梨木香歩『ピスタチオ』)

 今日はアトリエの日。午前中、のんびりしていたら、連絡があり、大田区からお久しぶりのお客様が(ぼくはよく会ってますけど道草の家へ来られるのは久しぶり)。預かってもらっていた荷物を運んでいただいて、一緒にお昼ご飯を食べて(道草の家の定番、ツナとネギの和えパスタ)、少しお散歩を。光海、やっぱり来客があると嬉しそう。誰が来るかにもよるのだろうけど。お客様は光海と久しぶりに会ったので、キーキー悪態をつくのも嬉しいらしく「もっとやって〜」とか言ってる。最近、ぼくの外出が多くてひとりで相手している妻が、ちょっと休めた。心が休まるというか。少しいてくれるだけで助かる。それでまた頑張れる。そんなものかも。光海も「キーキーつき接待」(?)おつかれさま。

2016/04/21

つかの間の休息

 午後は雨が降るという予報なので、朝のうちに行っておけ! というので久しぶりに親子三人で森林公園へ。光海は最近、こわいものがいろいろ出てきて、公園ではパパかママが一緒なのに滑り台がこわくなった。遊んで、家に戻ってお昼ご飯を食べてから、光海と一緒にぼくも昼寝を少々。つかの間の休息。

2016/04/20

画伯の謝罪

 昨日の画伯には何があったのだろうか。園から帰宅して「星の子」へゆく道すがら、通りすがりの人たちにやたらと謝ってる。木の枝にぶつかると木にも謝る。電柱にも謝る。そして昨日の画伯は行動がやけに速かった。付き人は体調が思わしくなく疲れていた。とはいえ、付き人が画伯に出発を急かされるなんてのは前代未聞の出来事であったかもしれない。

 付き人「熊本の地震、おさまりませんね」
 画伯「ごめんなさい」

 写真は「星の子」にて制作中の画伯。

2016/04/19

遠くない地震

 熊本、大分の地震が心配だ。そうしてニュースを追いかけていると、被災地となっている熊本、大分や、その周辺だけでなく、ほかの地域で起こっている地震も気になる。ここのところ、環太平洋で起こっている様々な地震も気になる。地球も生きているんだよね。忘れそうになっているけれど、生きているものは、いつか死ぬ。ま、地球がなくなる日の心配まではしてられないが(スケールがでかすぎて想像が追いつかない)、つまり、明日は我が身、というふうに感じているわけだ。

2016/04/18

モロッコ・パン

 食べてみたいと思っていたVieillの「モロッコ・パン」をお土産に買ってきて今朝から食べてる。シンプルでもっちもち。光海は「おもちだねぇ」だって。たしかに、丸餅に似てる? 大山さんはこの春、夫婦でモロッコを旅していたのだけれど、そこで食べて美味しかったパンを再現してるのだそう。ね? 美味しそうでしょう?

2016/04/17

音の糸

 久しぶりに江古田のVieillまで足をのばす。Vieillは、昨年の春に「鳥たちと」でイベントをやって以来、たまに顔を出すようにしてる場所のひとつだ。今月〜来月と市原ひかりさんの絵の展示をやるというので、たのしみにしていた。ひかりさんはジャズ・トランぺッターで、ぼくより少し若い、大好きなミュージシャンのひとりで。絵を描かれるのも知っていましたが、個展をひらくほど(描いていた)とは! Vieillの大山さんからいろいろお話を伺っていたら、ひかりさん本人ともお会いすることができた。外は春の嵐で。気圧の変化が凄まじいことになっている。ひかりさんは土岐英史さんのセッションなんかでは男まさりなアドリブで迫力満点だけれど、奏でるなかには彼女ならではのなんともいえない静謐なサウンドもあり、数年前にはピアノとのデュオで素晴らしいアルバムを1枚つくってる。今日、絵を見ながら、糸を紡いでゆくようなあのサウンドを少し思い出した。

2016/04/16

大地

 昨夜、アトリエから帰宅してすぐ、くらいの時間に再び熊本で、今度は一昨日の夜よりずっと大規模な地震があったという。今朝、鹿児島の母から電話があり、阿蘇大橋が崩落したって? まさか? と耳を疑うようなことを聞き、調べたら大ニュースになっていた。この数日、環太平洋の各地で大きめの地震が頻発しているという情報も入ってきている。どうか一刻でも早く大地がおさまりますように。

2016/04/15

朝、起きて、

 早朝、息子は寝言で「ごみしゅーしゅーしゃ」と言って笑ってる。ぼくはアトリエに行ったらアトリエが巨大になっていて80人くらいの学生がぼくを待ち構えていて逃げ出したくなる夢をみました(注:現実では多くて10人くらい)。朝、起きて、地震の心配をしています。熊本のみなさんどうかご無事で。

 ──こちらは今日からアトリエで新年度の授業をはじめる。初日は「方向感覚」の話をする予定。例によってその場で変えるかもしれないけれど。

2016/04/14

ちいさなウクレレ奏者

 雨の木曜日。ぼくはずっと家にいて、明日からはじまるアトリエの授業にむけて準備をしたり、いろんな雑用をこなしつつ、光海と遊んで過ごす。2階のパパの部屋に上がって、雨を眺めたり、いろんなものを手にとってみる。今日は初めてウクレレに興味をもった。触らせてみる。まずは持ち方がヘン。叩き割らないでね… と少し思いつつも渡して、鳴らしてみて、と言う。もう一方の手で弦を触ってしまっているので、なかなか音が出ない。が、彼にはそれでも何ら問題なさそうだ。ぼくが音を出してみせると、自分もやる、という顔をする。──いい時間だ。

2016/04/13

「声」が聴こえる。

 ブライアン・ウィルソンの来日、初日の東京国際フォーラムへ行って、帰ってきてビールを飲んでる。貧乏なので、今回はもういいか、と思いつつ気になってギリギリにチケットを買った。でも、行って良かった。過去三回の来日コンサートとはちょっと違った。思わず涙してしまう場面が何度もあった。ブライアン? 元気!
 以前のように、ブライアン本人の歌声で、あの楽曲たちを生で思う存分聴ける、という歓びに溢れたコンサートではもうない。もう声が出ないから(もうムリしないということかも)。でもそんなこたぁどうでもよくて、これまで感じたことのない不思議な感動があった。想像を超えてた。つまり本人の声は出てないのに「声」がしっかり聴こえる。力強くて重厚なビートとハーモニーのなかに。これぞ音楽の力なんだと思った。
 もう(ライブで聴けるのは、今度こそ)最後だろうと思う。ぼくの人生に、たくさんの素晴らしいサウンドの贈り物をありがとう!

2016/04/12

休息

 相変わらずママが体調を崩しているので、パパとふたりでいつものお散歩へ。馬たちに会いに行きました。なかには週末、関西まで出張していた馬もいるらしく、なんとなくみんな疲れぎみ。ゆったりとした時間。

2016/04/11

休まれる日

 週明けがぼくの休日だ。
 休日というのは、文字通り、と言っても、どうだろう、休める日、というのか、今日という日自体が休んでるような気もする、休んでる主体は自分か、誰か。
 妻が体調を崩してしまったので(風邪でしょうか)ぼくが光海を連れて散歩に出る。いつもの森林公園まで。「ぱっかぱっかおうまさん」たちがいるポニー・センターにも寄りたかったが、月曜は定休日だということをすっかり忘れていた。しかし落葉で遊び、小さな岩に乗って遊び、池で亀と鯉と話をして、光海はご機嫌。

2016/04/10

か、どうか。

 暑いくらいの日曜。同行(研修、顔合わせ、エトセトラ)の支援者と一緒に野毛山動物園へ。たくさんの動物がいるのに、なぜか今日はからすばかり気になった。からす(飼われてない)は人間とコミュニケーションをとっているように感じられた。動物より人が多かったせいか。人も動物だから、むこうも見てるかな。見られているのはどちらだろうか。知的障害のある彼(どこにでも連れて行け、たのしむから、と、いう人か、どうか)はからすにもほかの動物にもあまり興味がないようだけど、たとえば道端の段差なんかはよく見ていて近づいてゆく。そして乗ろうとする。それだけ。か、どうか。

2016/04/09

ちいさな野菜とおむすび

 ママのつくった野菜やおむすび。大根の白い部分が、ぼくの小指くらいかな。光海は朝、起きると、パオーンちゃん(ゾウのパペット)やキリンちゃん(ぬいぐるみ)に、これを朝ご飯としてあげてる。詳しくは、「ことのは山房のポケット」をご覧ください。

2016/04/08

命日

 思い出か、予感か、それさえ見当のつかないものが、海のように、光のように満ち、遠い白い建物として、異国的な樹々としてたちならぶ。僕にはこの状態が幸福なのだ。(小川国夫)

 ぼくの「ことば」の師匠・小川国夫が亡くなってから、今日、4月8日で丸8年がたちました。いまでも、聴こうとすれば、耳のなかに小川さんの声が聴こえます。亡くなってから、年々、よりよく聴こえるようになってきた気すらします。最近は夢のなかには出てこられなくなりましたが、いまは出る必要がないと思われているのかもしれません。彼の著作は手もとに山ほどありますから、いつでも読めます。ぼくは小川国夫を「神格化」するのがすごく嫌だし、自分の「宣伝」に使う気もしない。ひとりでただ読みつづけているだけです。

2016/04/07

雨を見るための窓

 朝、起きたら天気予報どおりの雨。昼すぎまでずっと強い雨で、夕方になってから少し止んだが、今度は風が強まっている。ぼくはたまたま、今日は終日、家にいる予定の日。午前中は光海が「あめみるかぁ?」と騒いでいるので2階のぼくの部屋に連れてきて、窓からずっと雨を見ていた。ぼくは光海の相手をして、一緒に雨を見たり、音楽を聴いたりしながら、原稿を読んだり、調べものをしたり、ひたすらちょこまかしたことをしてすごした。

2016/04/06

満開

 道草の家から駅のほうへ降りて行ったところにある公園の桜が満開だ。明日の雨と風で、散ってしまうかもしれない。桜っていうのは、あっという間に咲いてあっという間に散る。で、ぼくは桜が散ってからの1〜2ヵ月の季節が最近、好きだ。

2016/04/05

我が家の鯉のぼり

 今年も「鯉のぼり」が出た。光海が1歳になった直後、昨年の春に来た(購入した)紙の鯉のぼり。昔ながらの大きな鯉のぼりは置けそうにない。ベランダ用というのが売っているが、我が家にはベランダがない。ちいさな庭(のような場所)はあるが… というふうに迷って、妻が見つけてきたのが、この精巧につくられた紙の鯉のぼり。ひとつひとつ手づくりのため、発注してから届くまでにかなり時間がかかったが、届いたときの感動は(小さな見た目とは裏腹に)大きかった。
 天井からつるして、ふ〜っ! と吹くと回る。光海はパパとママに「ふ〜っ!」をくり返しせがむ。

2016/04/04

すぐそばに

 「解った」とは、何処から何処へ至ることを指す言葉なのだろうか。(井川拓)

 亡くなってから今日で5年がたった。5年も… 間違いないかな。もうすぐぼくは彼の享年に追いついてしまう。あの4月を少し詳しく思い出そうと今朝、「道草のススメ」(非公開にしてあります)を見返してみた。彼が亡くなる前の数日間、訃報を聞いた日の短い数行、その後、1週間ほどの空白、府中へ戻ってからの、回想の数々。彼を見送ったあと、彼の生前の仲間たちと一緒に眺めた鴨川の風景、その後、大阪で過ごした数日間のこと、府中へ戻る前に立ち寄った藤枝での、小川国夫の命日にかかわる出来事。府中へ戻って、少しあとに帰省した鹿児島で待っていた伯母の突然の死。東京へ戻り10数年ぶりに再会した高校の先輩との話が脈々とつづく。誰のことばなのか、書いていないのだけれど、「なぜ?」を理解したいとき、人は「なぜ?」を抱えて生きていくことしかできない、とある。悲嘆に暮れた濃密な日々。まだすぐそばにある。

2016/04/03

大國魂神社のしだれ桜

 2010年3月27日(だったかな)の朝、大阪から深夜バスで新宿に着き、京王線で府中に入った。早朝、ぼくを出迎えてくれたのが、大國魂神社のしだれ桜だった。
 その、しだれ桜に、今年も会いに行ってきた。
 なんだか、年々、立派になっているような気がする。というのも、ぼくが初めて会ったときのこの桜は、修復工事中だった大國魂神社の工事現場のなかにある感じで、ひっそりと、控え目で、出会ったときには、ハッとする地味さがあった。いまでは、それを感じることは難しいのだけれど、相変わらず、この桜一本だけで立っていることにかわりはない。ほかの場所のどんな派手な桜より、ぼくはこの桜が好きだ。

2016/04/02

モーニング・ページ

 私は信じていない。ただ知っているのだ。(カール・ユング)

 とても現実的で、絶望的な夢を見て、3時に目をさます。それから眠れなくなり。ずっと起きていた。これから長時間の「支援」という仕事。『貧困世代』を読み終えて、いろいろ整理しようと思うけど、何のことはない、自分のことだ。貧困対策=就労支援になってしまうことの問題を(著者の)藤田さんはくり返し指摘している。おっしゃる通り。涙が出る。
 いろいろ、ぼやいてばかりいてもはじまらない。朝には、ノートにむかい、思いつくままに吐き出す、ということをやっている。「モーニング・ページ」だ。「モーニング・ページ」をやっていると、ふと、現れる人や、現れる声、現れる思い出、現れる光景、なんかがある。久しぶりに、つづけてみよう。

2016/04/01

春の入口

 光海が好きなのは桜より、これみたい。道草の家へ入ってゆく路地はどこもかしこも。こんな感じ。