2016/01/14

気をつけろ。

 狭き門より入れ。滅びにいたる道は広く、これより入る者は多し。生命にいたる門は狭く、これを見いだすものは少なし。(『新約聖書』マタイ伝)

 困ったときには、焦るなよ、と自分に言い聞かせる。人間、そんな大股には歩けない(考えられない、感じられない、生きられない)みたいで、一歩、一歩、進まなければ道もできない。が、どうもこの社会で暮らしていると大股に歩けと言われているようなことが少なくない気がする。気をつけろ。

2016/01/13

一番たいへんなこと

 毎日、こんな朝を眺めながら、あたらしくつくる本の仕事を進める。昨日から急に冷え込んで、空は一段と透き通ってきた。地平線のほうにある雲も透明に光っているように見える。あと少しで、前準備が終わり、次の段階に入れる、という、今朝はその直前のところ。先週、少し愚痴を言ってから、急に、「いろいろあるけど、考えてないで、進めたら進むよ」という自分の声が聴こえてきて、あ、そうか、と。けっこう単純なことだったんだ、と気づくこともあり、とりあえずやってみているところ。自分を励ますのが一番たいへんだ。

 それにしても朝の時間は快適。今年は、というより、これからは、無理して夜中にやろうとするのを止めて、早朝の仕事に切り替えていこうと思うまでになってる。いい感じだ。

2016/01/12

「こえ」の発見

 ことばを話すことは、歩いたり、食べたり、息をしたりするのと同じように自然なことで、ある人々にとっては、ことばを話すことが人間が長いことかかって習得する技術であるということは実感できないだろうと思います。(竹内敏晴)

 鏡開き。というので、昨日の朝、妻がおしるこをつくってくれた。美味しい。
 ぼくには「こえ」を自分で意識的に見つけ、育ててきたという実感があるのだけれど、みんなそういうわけではないのだな、と気づいたらのはわりと最近のことだ。ぼくにはそうする必要があった。書くこともその一環だった。

2016/01/11

力を引き出す力

 芸術の力は、言葉を奪われているということではないのだろうか。そして言葉の力は、「通じない」ということなのではないだろうか。(加藤典洋)

 先週は久しぶりに(ある人に)ぽろぽろ止まらない愚痴をこぼしてしまったのだった。「そういえば、こういうことで愚痴を言う相手がいなくて」と言ったら「ここで言ってください」と笑って返された(ちょっとしたアイデアもいただいた、ぼくはそのとおりにはしないとは思うけれど、でもそのアイデアは必要だった)。ありがたかった。そのあと不思議と、少しずつではあるけれど、抜けていた力が戻ってくるようで。なんとかなりそうだ。
 そういえば、先週の木曜には、大國魂神社にも(毎年やっているように)新年の挨拶に行ってきた。珈琲焙煎神宮舎(笑)までは足がのびなかったので(時間がなくて)、そちらへの「初詣」はまた近々!

2016/01/10

コツ

 ここで子供時代から一番驚異だと思い、今日でも同じように驚いていることを話しましょう。それは「話すことができるということ」「理解できるということ」です。これはものすごく不思議なことですよ。(ミヒャエル・エンデ)

 今朝は日の出に間に合わなかった(写真は昨日の朝)。この朝の、短い時間に、少しずつ少しずつ、どうにもならないと思わず(思いながらでも)自分の仕事を進める。「仕事しながら仕事するコツは何でしょう?」と訊かれたんだ。コツがあるならオレが知りたいヨ。
 と書いて、いや、あるな、と思う。
 気分よくやる、ということ。
 そうします。

2016/01/09

ふかい観察のなかに

 外出支援の仕事始めの前日、伊勢山皇大神宮に初詣に行ったついでに、妻子には先に帰ってもらって少しだけ時間をもらって、横浜美術館で今週末(11日)までやっている「中島清之展」を観てきた。
 研ぎ澄まされた日本画の技法と(戦争を挟んだ激動の時代に画家が出合った)様々な身近な対象へのふかい観察から生まれたのだろう、様々な作風が、ぽろぽろとこぼれ出てくる。いわゆる「ポップ」な感覚もあるし、なかには抽象絵画のような作品もあって、とってもユニーク。で、また日本画らしい絵(?)に戻るとよりその深みが感じられる。細やかな観察のなかに、生まれるものの豊かさをじっくり感じられた。観れば観るほどいろんな発見がありそう。

2016/01/08

あの「空き地」

 豊かな孤独。そちらの方から、少し明るい、軽やかな空気が流れてくるような気がして。(梨木香歩)

 午前中、親子三人で森林公園へ行き、今日は初めて大きな滑り台のあるほうへも足をのばした。
 ぼくの幼いころ、ぼくの家族はマンションに住んでいた時期があって(いま思えば短い期間ではあったが)、その近くには「グリーン・センター」と呼ばれる大きな公園というか、現在では鹿児島県庁のビルが立ち並んでいる場所が巨大な空き地になっていてこどもたちにとっては格好の遊び場になっていた。いまぼくの実家のある場所に引っ越してから、しばらくしてその「空き」は見事にキレイサッパリ消えてなくなった。そのときの茫洋とした悲しさは、ぼくの心の底にうっすら残っていて消えない。森林公園で光海と遊んでいると、幼い日の自分が、あの「空き地」にいるのを感じる。