2016/01/28

海のある美術館

 この数年、自分の誕生日には、美術館へ出かけることに決めている。たまには自分自身の「外出支援」もしなければ、とね。でも今年はその日が日曜で、しかも雨か、雪かという予報なので、数日はやめて出かけてきた。今年は、葉山の神奈川県立近代美術館。『ヘレン・シャルフベック──魂のまなざし』を、ぜひこの機会に観たかった(3/27まで)。そこで美術展を観るのは、忘れもしない、2011年の3月、計画停電のさ中に『エル・アナツイのアフリカ』を観にきて以来、2回目か。
 美術館に入る前に海へ降りていくと、おぼろげに浮かび上がった富士が出迎えてくれた。絵を観て、疲れたら外へ出て海の音を聴いたり浜を歩いたりして、また美術館へ戻る、ということをして、約3時間。なんて贅沢なんだろう。肝心のヘレン・シャルフベックのことは、またあらためて書くつもり。

2016/01/27

実りの季節

 書くことで、自分でも気づいていなかった自分の奥深いところまで旅することができる。(中野民夫)

 吉祥寺美術学院のアトリエでの、ぼくの授業は、昨夜で2015年度の全日程が終了。この1年は、『からすのチーズ』のトークを手伝ってもらったのにはじまり、夏から秋にかけて数回のワークショップもあり、姉妹校の静岡美術学院にも呼んでいただいて、例年以上に濃い、心に残る1年だった。見える部分で、なんというか、この数年やってきたことの「実り」が多かった一方で、ぼくは自分自身の制作(創造?)の動きが少し弱くなって、悩み多い時期でもあった(「教える」ばかり強まると説得力がないから)(一方的に「教えて」いるつもりもないのだけど)。少し時間を置いて、また新しい話をしにいきたい。そして受験生たちからの結果報告を、たのしみに待ちます。

2016/01/26

ちいさなピアノ

 ことばとは、確定され、文字に書かれ、まぎれなく発音されるというものよりは、はるかに根源的な何かであるのではないか。(竹内敏晴)

 久しぶりに『ことばが劈(ひら)かれるとき』(竹内敏晴)をめくっている。2009年の年末、勤めを止めようと決意しはじめたころ、当時は毎朝、少しずつ音読することでしか読まないと決めて読んでいた文庫本。竹内さんが来るはずだった大阪吃音教室で、追悼の語り合いが行なわれた。そのころ、近くの古本屋で見つけて買ったのだった。大阪吃音教室に出会った翌週だったか。ぼくは竹内さん本人には会いそびれたが、すばらしい出会いであった、とは言える気がしている。
 写真は先週の光海。かれとの遊びは、いろんな可能性を秘めていて、ぼくからすれば、いろんなアイデアの宝庫にもなる。妻もそう思ってるはず(?)です。

2016/01/25

強風

 ことばは行動である。(スタニスラフスキー)

 ぼくはどもって声が出ないときに、笑う癖がある。人によっては顔をしかめるとか、仕草が大きくなるとからだを叩くとか、頭をふるとか、あまり大きくなると問題も大きくなってくる。ようは、出にくい声を出すために勢いをつけている(?)わけだ。先日、そのぼくの「笑い」にこわばった表情を見せた人がいた。仕方のないことだ。また別の先日、知的障害の人たちに長年かかわってこられたという方が、「吃音」ということばは最近知ったが、と触れて、「(その人が吃音者かどうかは)話せばわかる」と言っていて、少しガッカリしたのだった。でも、人ってそんなもんだ、と思ってるところもある。しかし、そこで崇高な理念というのか、理想のようなことを語られると、はっきり言ってぼくはしらけるのだ。それは現実をしっかり(はっきり)捉えられていないからではないかと思う。現実がしっかりしていたら、非現実的な理想でも耐え得るだろう。

2016/01/24

晴れた朝の戯言

 ぼくの故郷・鹿児島市では珍しく雪が積もっているという朝。こちら、横浜はこのとおりです。
 外出支援という仕事、中止になるとさ来月の生活に響くので、雪が降って中止になってほしくない。なので、ホッとしています。それくらい危ういなかで仕事して生活しているということ? だから、「事故」やら「虐待」やらのニュースを見ても、他人事のように非難したりお説教を垂れることが自分にはできないなぁ。でも自分がなるだけそこに踏み込まないですむような工夫は日々しています。しかし、気候とか天候に左右されるって、行商か農業か、その年や時期によって豊作だったり貧しかったりする。必要なら「出稼ぎ」に出ると。昔ながらの暮らしをしていますと言ってみてはどうか(思いつき)。いまはどうしても「子育て」と「生活のための仕事」(「生業」というか「稼ぎ」というか)に注力しなければならなくて、たとえば今月前半に書いてしまうはずだった〆切のはっきりしない原稿は、相変わらず、まだ。とはいえ毎朝、少しずつ。

2016/01/23

最近、( )に夢中だ。

 愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に、全面的に自分をゆだねることである。愛とは信念の行為であり、わずかな信念しかもっていない人は、わずかしか愛することができない。(エーリッヒ・フロム)

 最近、「ほーぼーしゃいちゅた」(『しょうぼうじどうしゃ じぷた』)に夢中だ。ぼくが幼いころにくり返し読んだ絵本を実家から贈ってもらって親子二代で読んでる。最近、「ぶーぶ」(車)に強い興味が出てきた様子。先週、「かっきーぶーぶ」(かっこいい車)のオモチャをママの知り合いの保育園の先生の家でもらって、お気に入り。「かっきーぶーぶのびーびー」(かっこいい車のDVD、パパのお気に入り、ジャック・タチの『トラフィック』、そういえばあんなに車ばっかり走ってる映画もそうないか)にも夢中だ。あれを見ているときだけは静かだし。それから、最近、「おえかき」に夢中だ。

2016/01/22

たまに思い出す。

 ぼくは自分が大阪を離れたときの話をいつか書こうと思うけれど、何年後になるかな、何十年後になるかな、2010年の3月の話を書くまでに、かかる時間は、とてもながく、ながく、ながく感じられる。それを超える話はぼくからは出てこないような気がしている。それは、当時ぼくの近くにいた人ほどわからないかもしれない。なぜって、ぼく自身が全然わかっていないから。わかるような気がする部分もあったが、いまとなっては、それも違うような気がする、あれも違ったような気がする、ではなぜ? とにかく大阪から府中へ(府中でなくてもよかったのだが)移動するために、周囲の人を、自分自身をもうまく言いくるめて、それまでにあった流れをスパッと断ち切ったのだった。
 たまに思い出す。いま、こうして、横浜で家族三人暮らしているのが、夢のようだ。